昨日の午後からは、千歳霊園にあるK家の墓前にて記念式を行いました。
前日まで天気予報は雨マークがあり、当日まで心配がありましたが、風は少し強かったものの、晴れ間も見えて、良き記念式となりました。
讃美歌を歌い、聖書のみことばを読み、聖書からのメッセージがありました。
昨年の今頃、急遽、葬儀の司式をしてほしいという依頼が葬儀屋さんを通してありました。亡くなった方はクリスチャンではなかったが生前、キリスト教会へ通っていたことがあり、そのご両親か、祖父母がクリスチャンであったらしいと言うお話を伺いました。
もしかしたら、聞いていたであろう福音がKさんの内にあって、亡くなる前の昏睡状態のとき、神様の特別な計らいの中でイエス様に出会えたかも知れない。
それはあくまで、私の希望的観測に過ぎないのですが、神に希望を置き、神の憐れみによって、そんなこともあるかも知れない。そこに望みを置き、葬儀の司式依頼を受けました。
そんなことが昨年あって、一年後の今日、その親族の方からの依頼で記念式ができることは、何よりの幸いです。
メッセージの内容は、葬儀のときもそうでしたし、納骨のときもそうでしたが、今、生きているうちに福音を信じて神の救いを受けることです。
ただし、福音をまず聞いていることは最低限大事なことであると思います。それは死ぬ寸前まで、救われるかどうかは私たちにはわからないことだからです。神様がその人のうちに語られていた福音をどのように用いて救いに導くかは、私たち人間にはわからないことです。
それでも、できれば、生きているうちに周囲の人たちが認めるクリスチャンになっていれば、葬儀の説教者も堂々と、救われて死ぬことの幸いを語ることができます。やはり、生きているうちから信じて態度をはっきりさせた方が良いに決まっています。
だから、そのことを第一に語り、あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよも私は伝えます。
信じなければ、先に待っているかも知れない愛する人に再会することはできません。
先に逝った人がもし地獄に行ってたらどうするのか?もし、そうなら、私も地獄に行きたいと言う人がいるかも知れませんが、地獄に行ってたら孤独なのです。地獄で再会はできません。
何よりも苦しい、悲しい、つらい場所が地獄ですから、そこで愛する人に会える慰めなどないのです。
だから、愛する人に再会したいのであれば、救われている方に賭けて、今、生きているうちからキリストを受け入れた方が良いのです。そうすれば、救われているかも知れない愛する人に必ず会えます。
その希望を神に置いて良いと思います。さばき主はきよいお方であり、また愛のお方でもあります。そこに期待し、信仰、希望、愛を主に委ねて、今日キリストを信じ受け入れましょう。