のりさんのブログ

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三浦綾子『孤独のとなり』より

 夫に叱られる、妻に叱られる、姑に叱られる、近所の口がうるさいなどと、実にわたしたちの行動は、他に律せられてなされることが多いのではないだろうか。
「叱られるからする、叱られるからしないというのは、最低の人間だ」


 いつかある人がこういっていた。わたしもそう思う。わたしたち人間は、叱られようと嘲われようと、「人間としてすべきことだから」する、またはしないのでなければないだろう。それが人間なのだ。
 この間、白浜のホテルで猿芝居を見ながら、わたしはそれを思った。動物に芸を教えるには鞭をつかう。動物は殴られれば痛いから、いうことを聞く。「叱られるから」ということが、わたしたちの行動の基準では、猿に似て全く最低の人間なのかもしれない。叱られぬうちは、「買い占め」をしたり、「垂れ流し」したりする大企業も、これと同じく最低なのであろう。


 その反対は先駆者たちである。確かに考えてみると、先駆者たちは、大てい「嘲われ」「指さされ」「叱られ」「迫害され」ても、なすべきことは断乎としてなしてきた。
 発明者たちはたいてい、気狂い呼ばわりされたし、新しい思想の持ち主は、官憲の激しい弾圧に遭っている。日本におけるキリスト教への迫害もすさまじかった。

 が、人間としてなすべきことは、「叱られても」「殺されても」断乎としてしなければならぬというのが、ほんとうの人間の行動というものではないだろうか。      
「誰に叱られても、よいと思うことはおやりなさい。誰に叱られなくても、悪いと思うことは、おやめなさい」                                   このように言い聞かすことのできる母親ばかりになったとしたら、この世はずい分と変わることだろう。