のりさんのブログ

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教派と教派主義

キリスト教会には、宗教改革以降、非常に多くの教派が誕生しました。その源流を探れば、大きく4つに分類できるでしょう。

 

一つは、やはりルターから始まるルター派。二つ目は、カルヴァンから始まるカルヴァン派、三つ目はツヴィングリから始まるツヴィングリ派。そして、ヘンリー8世の不倫問題から始まるイギリス国教会です。

 

1.聖書のみ、信仰のみ

当初、どの教派も国家と教会が結びついた国教会というスタイルは変わらず、どれもが、それぞれのグループの特徴を主張して個性を強調しました。ただし改革者本人の名前が教会名になることは望んでいませんでした。

 

それは、キリスト者であれば当然のことでしょう。もし、私が所属する教会に私の名前がつくことを考えると、それは異端ではないのかと、強い拒絶を覚えます。

 

やはり、キリスト教会として健全でありたいからこそ、彼ら宗教改革者たちは、人間の知恵ではなく、神のことばである聖書を基に、聖書から教会の在り方を抽出していったのではないでしょうか。

 

 だから、当時堕落してしまったカトリック教会に対しての反動があり、振り子が大きく振り切ってしまったことで、当初のルター派カルヴァン派も、カトリックに対する扱いがかなり手厳しいです。

 改革の全てが正しかったわけではありませんが、聖書のみ、信仰のみという原則に立ち返ったことには大きな意味があります。

"けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。"
ヨハネの黙示録 2章4~5節


 

2.原点に帰り続ける必要

だから、そこから始まった諸教派は、その原点にいつも帰り続ける必要があります。

 それは、教派の歴史や伝統は、あまり大事ではないということです。教派の存在は当然認めなければならないでしょう。しかし、それはかつてカトリック教会一本だったところから、その誤りに気がついて、聖書をもとに初代教会の姿に戻ろうとしたことが改革の原点であり、また目的であり、決して〇〇派としての主張、その特色に生きることが大切ではないからです。

 かつてルターは聖書のみ、信仰のみを強調しました。カルヴァンもそうではありますが、教会政治としての長老制を主張し、万人祭司(信徒皆祭司)の必要を認めつつも、同時に非現実的なことも認め、「既にといまだ」の中で司牧の働きをする者と一般信徒の立場の違いを明らかにしました。

 これについては、万人祭司を最初に唱えたルターもしかりで、教会内の秩序の必要性を説いています。つまり、この世におけるキリスト者の不完全さがあって、いまだ神の国が完成されていないだけに、大牧者キリストのしもべとしての牧者の必要性を聖書から導き出したのです。

"こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。"
エペソ人への手紙 4章11~12節


 

3.教派主義に走る危険

 他方、ツヴィングリから続いたグループは、特にツヴィングリ派とはならずに、その主張にあったように国家からの離脱を唱え、自由教会としての道を模索していきます。これがいわゆる急進派と呼ばれるアナバプテスト・メノナイトの流れです。

 このグループは、他の教派が国家からの離脱の必要性を説く前から、自由教会を唱え、しかも教職制にも異を唱え、会衆制を目指していたため、国教会の秩序の混乱イコール国家秩序の混乱と考えられ、それが当時の官憲による取り締まりの対象となってしまったのです。

 それ以来、カトリックからも他のプロテスタント教会からも迫害を受けて来た歴史があるため、伝統的に他のプロテスタント教会との距離を取るアイデンティティが生まれたものと考えられます。

 

 それだけに、現代においても、そのマイノリティ的な伝統が生き続けており、何かにつけて、聖書よりも、その伝統の中から生まれた思想が重んじられているように思います。

 

 絶対平和主義という考えがありますが、それをある意味、自分たちの使命として捉えているところがあり、それが教派としてのプライドとなっているようです。

 何かにつけ、「アナバプテスト・メノナイトとして」というフレーズが聞こえ、聖書から、「みことばによってこうだ」というのではなく、メノナイト教会イコール平和主義という看板のゆえに行動する姿勢に、私は違和感を覚えます。

 それは、キリストの十字架の贖罪と復活による救い、福音の一致などキリスト教会として譲れない教理的な確認、キリスト教会としての譲れない価値観の共有による一致ではなく、あくまで伝統や歴史から構築された教派主義に立つことは、キリスト教会としては健全ではないからです。

 それはもはやキリスト教ではなく、別の宗教としてのメノナイト教なのだと思います。メノ・シモンズも自分の名前が教会につけられてしまって、恐らく迷惑していると思います。

 プライドは教派の伝統にではなく、あくまで、このような足りない者を御許に召してくださった十字架の主にのみあるべきだからです。

"「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。"
コリント人への手紙 第一 1章31節


 

結び

 現在、多くの教派があるのは認めますが、これからのキリスト教会はむしろ無教派的な取り組みが必要であろうと思います。教派を強調することが、純粋な福音宣教を妨げます。その教派主義からくるプライドは、キリスト教会を混乱させるだけでなく、まだ福音を信じていない方々にも混乱を与えて、主にあって皆一つというキリストのからだなる教会の公同性に問題を抱かせているのです。

 今一度、宗教改革の原点に立ち返り、純粋に聖書のみ、信仰のみという姿勢で、成長した21世紀の教会の姿を目指すべきです。それぞれの教派で主張して来たことは、この500年の歴史の中で、もう十分に果たし終えたからです。

 これから、もちろん、その教会の歴史を認めつつも、教派主義ではなく、聖書が神のことばであるという初代教会の価値観に立ち、そこからカトリックが陥ってしまった過ちを反省し、プロテスタント教会も犯して来た失敗を私たちの失敗として悔い改め、あらためて聖書に立った考察が必要ではないでしょうか。

 キリスト教会の生き残りに必要なのは教派主義ではなく、聖書を通して示されるキリストご自身のお姿に倣い、キリストの教会を建て上げることだからです。

 

 そのキリストの福音を正しく伝えていくところに、キリストの羊が目を覚まして、そこを主の教会であると認識して集まって来るのではないでしょうか。

 

"わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。"
ヨハネ福音書 10章27~28節