のりさんのブログ

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博愛主義、平和主義

キリスト教は博愛主義、また平和主義だと言う人がいます。確かに聖書は、平和(平安)という言葉が多く出てきます。また愛という言葉も出てきます。だから、そこに「主義」をつけてしまう。

 

でも、それは間違いです。それはイデオロギーは信仰の産物かも知れませんが、キリスト教があるイデオロギーを主張するならば、それは政治団体と変わらない。

 

古代ローマ帝国時代から、キリスト教会は国家との関係に悩みを抱えていました。それは、特にコンスタンティヌス1世によるミラノ勅令から始まり、キリスト教の公認があって、教会が擁護されるようになったときに、軍隊をもって解決する国家の機能を容認せざるを得なくなったことが大きいと言えます。

 

次第に聖書から離れ、また聖書を都合良く解釈することで、国家権力との関係を認め、聖職者たちの公務員化が起こり、信仰による御霊に満たされた生き方ではなく、それを無視した〇〇主義が必要となったのです。

 

それは、信仰が骨抜きになり、神を愛するが故に神の子どもとされた者たちが、御霊に満たされて歩む中で、その実として、人も愛するし、平和に生きることが、信仰者なのだからそうしなければならないという律法的な捉えの中で、本来の喜んで献身することから程遠くなったからです。

 

しかし、キリスト教会、またそれを構成するキリスト者の生き方は、そうであってはならないのです。それは、社会運動として、人を愛する主義とか、平和にする主義などを唱えたところで、その動機が主を愛するためでなければ、真の愛でも平和でもないからです。

 

だから、軽はずみにキリスト教会なのに、平和教会とか博愛教会などと表現するのはおかしいのです。

 

 そんな修飾語を付加しなくても、キリスト教会は愛を表し、平和に生きることは当たり前だからです。その当たり前のことを自分たちのプライドにしてはならないのです。

 

 どのキリスト教会だって平和を求めているし、互いに愛するように伝えているし、実行しようとしています。それは、主を愛するがゆえの行動であって、博愛主義、平和主義というイデオロギーという看板のゆえではないのです。

 

ですから、あらためてキリスト教会は主イエス様の姿そのものであることを自覚して、主が私のため、そして、あなたのためにどんな素晴らしいことをなしてくださったかを、日々、思い起こし、そこから与えられる愛によって、感謝に溢れて行動できるよう、意識してまいりましょう。

 

そこに溢れる恵みへの感謝こそ、主に対する芳しい香りだからです。

 

今日も、神が御子を与えるほどに愛してくださった真の愛を味わい、その愛に応えて、そこから溢れ出る感謝をエネルギーとして、主に献げてまいりましょう。