のりさんのブログ

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聖なる公同の教会を信ず

使徒信条でいつも告白している中に、教会についてのくだりがあります。

それは、時代を超え、教派を超え、純粋に福音によって救われている人たちの集まり(エクレシア)です。

 

ですから、目に見える教会は、目に見えないキリストのからだなる教会の中にありますが、信仰がないにも関わらず洗礼を受けてしまい、自称クリスチャンになってしまった人は基本的に入っていません。

 

基本的に、と言ったのは、そのように形だけ洗礼を受けてしまった人の中でも、その後、なんらかのきっかけで正しく信仰告白して救われる人もいると思うからです。

 

そのように、真のクリスチャンのみが集められるのが、聖なる公同の教会なのです。

 

私たち目に見える地域教会のクリスチャンは、いつも、その霊的な教会を意識していなければならないと思います。それは自分自身が常に純粋に福音を生きているか。キリストの贖いを信じる信仰によって救われているか。

 

つまりキリスト教会がキリストの教会として、キリストに対する信仰による群れとして立っているかです。ルター派として、カルヴァン派として、カトリックとして、メノナイトとして、ではなく、キリスト教会として何を拠り所として立ち歩んでいるか。そこにキリストのからだなる教会、すなわち真のカトリック(公同)教会があるのです。

 

 大切なのはキリスト教会という看板に相応しく、キリスト教会として、神のことばに聴き、神のことばによって生かされていること。また、そこによって立つ生きた信仰だからです。

 

 その志しを与えて立たせ助けてくださるのが御霊です。教会が教会たるには聖霊なる主の働きが不可欠です。だから、使徒信条においても、「我は聖霊を信ず」のあとに、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し…」と続くのです。

 

この公同の教会を聖霊の業と信じつつ、そこに入れられた私たちが交わりをし、罪が赦されつつ赦し、キリストの復活と永遠のいのちの希望に満たされて今日も歩むのです。

「生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」

 

 今日もこの教会の一員として、キリストが外にも内にも満ちて、信じる私たちを覆っている恵みを噛み締めて歩ませていただきましょう。

 

"どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、
また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。
この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、
すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。
また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。
教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。"
エペソ人への手紙 1章17~23節