のりさんのブログ

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「キリスト教会史」十字軍②

●諸侯による第一回十字軍
(1)コンスタンティノープルで冷遇される
 十字軍運動の盛り上がりの中で、民衆十字軍が壊滅し、ユダヤ人への迫害が行われたが、あとに続いたのは1096年に出発した貴族や諸侯たちによる十字軍の本隊である。西欧各地の諸侯は聖地を目指した。主導的な役割をはたしたのは、教皇使節アデマール司教、南フランスの諸侯のまとめ役トゥールーズ伯レーモン4世、南イタリアのノルマン人のまとめ役ボエモンの三人。
 諸侯と騎士からなる十字軍本隊は計画通りに1096年8月にヨーロッパを各自出発し、12月にコンスタンティノープルの城壁外に集結した。この本隊には騎士だけでなく、必要な装備にも事欠く多くの一般市民が同行した。民衆十字軍の壊滅から生還した隠者ピエールも民衆十字軍の生き残りの人々と共にこの本隊に合流した。その数は、騎士4200ないし4500、歩卒3万とも(橋口p74)とも、6万とも言われる(p84)。
コンスタンティノープルにたどりついた十字軍は、すでに食料が乏しかったが、呼びかけ人の皇帝アレクシオス1世から食料が提供されるものと考えていた。しかしアレクシオス1世は先に民衆十字軍を見ていたことや、軍勢の中にかつての宿敵ノルマン人のボエモンがいたことから猜疑心を抱き、指導者たちに向かって、食料を提供する代わりに、自分に臣下として忠誠の誓いを立て、さらに占領した土地はすべてビザンティン帝国に引き渡すことを誓うよう求めた。食料にとぼしかった指導者たちに、これを断る選択肢は残されていなかった。
 
(2)ニカイア攻城戦でビザンティン不信が決定的に
 アレクシオスから小アジアを案内する部隊を提供され、十字軍将兵は最初の目標としていた都市ニカイアにたどりついた。十字軍は協議の上でニカイアの攻囲を開始。力攻めを避け、水源を封鎖して兵糧攻めを行う。クルチ・アルスラーン1世はアナトリア高原で、当地の王と戦っていたが、首都が包囲されていると聞き、あわてて引き返し戦うものの損害を出し、これ以上この強力な軍団と戦えばセルジューク朝自体が危機に陥ると考え、城内にたてこもるギリシア人住民やテュルク系守備隊にビザンティン帝国への降伏を薦め、退却を決めた。この状況を伝え聞いたアレクシオス1世は、十字軍がニカイアを陥落させた場合は略奪を行うに違いないと考え、ひそかに使者を派遣してニカイアの指導者に降伏するよう交渉を行った。守備隊は説得され、住民らは夜ひそかにビザンティン兵を城に入れた。
 1097年7月19日朝、街を囲んでいた十字軍将兵は目覚めて仰天。城壁にビザンティン帝国の旗がひるがえっているではないか。そればかりかアレクシオスの指示で十字軍将兵は城内に入ることが許されない。こうして十字軍と東ローマ帝国のお互いの不信感が決定的になった。
 西側の年代記作者たちは、ギリシャ人の枕詞に「不実な」『卑怯な』『邪悪な』『裏切り者の』とつけるほどに偏見と憎しみを表現していた。
 
(3)エデッサ伯国成立
 十字軍はニカイアを離れ、エルサレムを目指した。ビザンティン帝国軍は十字軍の道案内をしながら彼らの助けを借りて小アジアの西半分の領土をセルジュークから回復していった。小アジア進軍は十字軍将兵にとって苦痛に満ちたものとなった。夏の暑さと水や食料の不足から多くの兵がたおれ、軍馬も失った。彼らはアナトリア横断に百日もかけてしまった。小アジアで十字軍は略奪によって物資を得ることが多かった。十字軍全体の統率ができるほど強力な指導者がいなかったが、全体の中ではレーモン・ド・サン・ジルと司教アデマールが指導者的地位を認められていた。
 キリキア地方を通過したところで、ブルゴーニュ伯ボードワンは手勢を率いて十字軍と別れ、北進して1098年、エデッサにたどりついた。ボードワンは統治者ソロスに自らを養子、後継者と認めさせた。市民の暴動によってソロスが命を落とすと、ボードワンはエデッサの統治者の座に着き、ここに最初の十字軍国家であるエデッサ伯国を成立させた。王位簒奪である。
 
(4)アンティオキア包囲・アンティオキア公国設立
 十字軍本隊は1097年10月、コンスタンティノープルエルサレムの中間点にあたる都市アンティオキアに到着し、これを包囲。アンティオキアは難攻不落であった。アンティオキアの周囲を全て包囲できるほどの軍勢がなかったため、都市に対する補給を許すことになり、包囲は八ヶ月の長きに及んだ。十字軍将兵地震と大雨におびえ、飢餓に苦しみ人肉まで食らうほどだった。
 しかし、7月28日、敵が戦わず退却するところを十字軍は逃さず、撃破し大勝利を収めた。シリアに十字軍を相手にできるムスリム勢力はもはや存在しなかった。また、エデッサとアンティオキアの占領で十字軍の領土欲が満たされ、宗教的情熱をもつ諸侯や大多数の庶民・騎士をのぞき、諸侯らの一部がエルサレムへの関心を見失い始めた。
 ここにきてボエモンは、皇帝アレクシオスが十字軍部隊に何の援助もしないので、占領した都市はすべて皇帝に引き渡すという誓いは無効であると主張しはじめた。十字軍の指導者たちは紛糾し、進軍はストップした。さらに疫病が軍勢を襲い、多くの兵や馬が命を落とした。疫病によって教皇使節アデマールも落命した。軍勢は指揮系統を失った。1098年末、シリアの都市マアッラ陥落後、住民を殺戮し、犠牲者を鍋で煮たり串で焼いたりする人肉食事件が起こる。1099年初頭ようやく指揮系統が回復し、軍勢はエルサレムに向かった。ボエモンはアンティオキア公国建国を宣言し、アンティオキア公ボエモン1世となる。
 
(5)エルサレム攻略とエルサレム王国成立
 十字軍はエルサレムを目指して地中海沿岸を南下した。組織的抵抗はほとんどなかった。十字軍の通過した町や村の荒廃を聞き、セルジュークやアラブの地方有力者たちは十字軍に宝物・食料・馬など物資や道案内を提供して無難に通過させることを選んだからであった。
 一方エジプトのファーティマ朝は動揺していた。アンティオキア攻略中の十字軍に使者を送り、シリアの南北分割統治を提案したものの、彼らはあくまでエルサレムにこだわり、十字軍との同盟も不可侵条約も成り立たなかった。その後、ついにファーティマ朝の北限境界を越えた。こうして1099年5月7日、軍勢はいよいよエルサレム郊外に到着した。
 十字軍はエルサレムを包囲し、攻城やぐらを建設し城壁を乗り越えようとしたが、ファーティマ朝の司令官イフティハール・アル・ダウラは石油や硫黄を使った攻撃で、攻城やぐらに火を放ち城を守り、一方十字軍側は満足な食料の補給もなかったため、十字軍側の死者の数は増える一方となる。しかもファーティマ朝本国からムスリム軍援軍が迫っており、エルサレム攻略は不可能かと思われた。そのとき従軍していたペトルス・デジデリウスという司祭が、断食したうえ裸足で九日間エルサレムの周りを回ればエルサレムの城壁は崩壊するという幻を見たと主張しはじめた。旧約聖書のエリコ陥落の故事をふまえた発言であった。1099年7月8日、デジデリウスの後に従い、将兵たちはエルサレムの周りを回り始めた。七日目の7月15日、彼らは城壁の弱点を発見してそこを打ち壊して城内に入ることに成功した。
 城内に入った十字軍は一週間にわたってエルサレム市民の略奪と殺戮を行い、イスラム教徒、ユダヤ教徒のみならず東方教会キリスト教徒まで殺害した。ユダヤ教徒シナゴーグに集まったが、十字軍は入り口をふさぎ、火を放って焼き殺した。多くのイスラム教徒はソロモン神殿跡に逃れたが、十字軍の軍勢はそのほとんどを殺害した。虐殺された数は七万人以上とされる。虐殺に伴ってイスラム教徒、ユダヤ教徒東方正教徒の女性に対する強姦と財宝の略奪も行われた。
 市民の殺害が一段落すると、軍勢の指導者となっていたゴドフロワ(注)は「アドヴォカトゥス・サンクティ・セプルクリ」(聖墳墓の守護者)に任ぜられた。これはゴドフロワが、王であるキリストが命を落とした場所の王になることを拒んだからである。ギリシアアルメニアコプトなどの東方正教会各派のエルサレム総主教たちは追放され、カトリックの司教が立てられた。
 ゴドフロワはこのあと、エルサレムを拠点にパレスチナやシリア各地を襲い、1100年にエルサレムでこの世を去り、弟エデッサ伯ボードワンが「エルサレム王」を名乗った。ここに十字軍国家エルサレム王国が誕生する。
 
注(下線のゴドフロワの言動に象徴されるが、その行なったことは野獣よりも悪逆非道なのに、妙に敬虔な装いの言動をするのが十字軍の奇怪さである。それにしても、教会が国家権力を利用し、国家権力が教会を利用すると、なぜこれほどまでに悲惨なことが起こるのか? それは国家権力の本質は剣だからであり、宗教は自己を絶対の正義と思い込ませるからであろう。「汝の敵を愛せよ」「剣をとる者は剣によって滅びます。」と言われた主イエス・キリストの教えから、ここまでかけ離れてしまって、自分が神のみこころを行っていると思い込んでいたとは、なんということだろうか。ひとりひとりの兵士の責任よりも、教皇の責任がはるかに重い。) 
 

●その後の十字軍
 第2回十字軍(1147-1148)「空虚な理想」。イスラム教徒が盛り返し、エデッサ伯国を占領したことで危機感が募り、教皇エウゲニウス3世の呼びかけで十字軍が結成された。当時の名説教家クレルヴォーのベルナルドゥスが教皇の依頼を受けて、「十字軍は人を殺すためではなく、キリストのために死を受け入れて殺されるために行くのである。十字軍の思想は政治によって圧倒されようとしているが、その性格は福音的でなければならない。」(橋口p139)という理想を説いて各地で勧誘を行い、フランス王ルイ7世、神聖ローマ皇帝コンラート2世2人を指導者として、多くの従軍者が集まった。しかし、大きな戦果を挙げることなく小アジアなどでムスリム軍に敗退。パレスチナにたどりついた軍勢も失敗し、撤退せざるを得なかった。
 第3回十字軍(1189-1192年)は「異教徒の寛容」。1187年に「イスラムの英雄」サラディンにより、およそ90年ぶりにエルサレムイスラム側に占領、奪還された。教皇グレゴリウス8世は聖地再奪還のための十字軍を呼びかけ、イングランド獅子心王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世が参加した。肥満しすぎていたフリードリヒ1世は1190年にキリキアで川を渡ろうとしたところ、落馬し、鎧が重くて溺死した。イングランドとフランスの十字軍が1191年にアッコンを奪還した。その後フィリップ2世は帰国し、リチャード1世サラディンと休戦協定を結んだことで聖地エルサレムの奪還は失敗に終わった。しかし、エルサレム巡礼の自由は保障された。サラディンは聖地奪回したときも、虐殺を働かず、巡礼の自由も認めた。
 第4回十字軍は「大脱線」した(1202−1204年)。ローマ教皇インノケンティウス3世の呼びかけにより実施。エルサレムではなくイスラムの本拠地エジプト攻略を目標としたにもかかわらず、十字軍輸送を請け負ったヴェネチアの意向でハンガリーのザラを攻略してしまう。そこで、教皇は同じカトリック国を攻撃したことで彼らを破門した。ついで、東ローマ帝国の都コンスタンティノポリスを征服する。このとき十字軍による市民の虐殺や掠奪が行われた。フランドル伯ボードワンが皇帝になりラテン帝国を建国した。教皇はこれを追認し、さらにエルサレム遠征を要請したが実施されなかった。こうして東ローマ帝国はいったん断絶し、東ローマの皇族たちは旧東ローマ領の各地に亡命政権を樹立した(東ローマ帝国は57年後の1261年に復活)。
 第5回十字軍(1218〜1221)エジプトを攻略するも失敗。
 第6回十字軍(1228〜1229)は「平和共存」の画期的十字軍。神聖ローマ皇帝フードリヒ2世は、エジプト・アイユーブ朝のスルタン、アル・カーミルと、戦闘を交えることなく平和条約を締結。フリードリヒはエルサレム統治権を手に入れる。ブルクハルトは彼を「最初の近代人」と表現した。1239年に休戦が失効し、マムルークエルサレムを再占領した。1239年-1240年に、フランスの諸侯らが遠征したが、やはり戦闘は行わないまま帰還した。宗教の異なる民族の間に平和共存、聖地共有が可能であるということを示した。
 第7回十字軍(1248〜1249)。アル・カーミル死後、1244年にエルサレムイスラム側に攻撃されて陥落、キリスト教徒2000人余りが殺された。1248年にフランスのルイ9世が遠征するが、アイユーブ朝のサーリフ(サラディン2世)に敗北して捕虜になり、賠償金を払って釈放される。 
第8回十字軍(1270)では、フランスのルイ9世が再度出兵。アフリカのチェニスを目指すが、途上で死去。
 
●十字軍の後代への影響
(1)教皇の威信への影響
第1回十字軍は、エルサレム王国、アンティオキア公国、エデッサ伯国トリポリ伯国の十字軍国家と呼ばれる国家群をパレスティナとシリアに成立させて、巡礼の保護と聖墳墓の守護という宗教的目的を達成し、教皇権は威信を高めた。しかし、その後、十字軍が敗退して戦果が上がらないと、教皇の威信の低下という逆の結果をもたらすことになっていった。
 
(2)地中海の交易再開とルネサンスの準備
十字軍国家の防衛やこれらの国々との交易で大きな役割を果たしたのはベネチアジェノヴァといった都市国家である。これらイタリア諸都市は占領地との交易を盛んに行い、東西交易(レヴァント貿易)で巨利を得た。こうして十字軍は、東方の文物が西ヨーロッパに到来するきっかけとなり、後のルネサンスを準備することになった。
 
(3)封建領主の弱体化
 封建領主たちは、十字軍遠征に自ら出かけるために経済的な困窮に陥ったり、生命を落としたりした。領主不在という状況は、西ヨーロッパの政治的状況を不安定にした。また、十字軍の資金調達の必要から教皇や君主が徴税制度を発達させ、西ヨーロッパの封建領主は、衰退した。 中世崩壊の準備となる。


(4)東方教会ローマ・カトリックの溝が深まる
東方正教会カトリックの和解が十字軍を唱えたカトリック教会指導者側の当初の動機のひとつだったが、両者の間はかえって溝が深まった。両教会は、それまで教義上は分裂しつつも、名目の上では一体であり、互いの既存権益を尊重しつつ完全な決裂には至っていなかったが、十字軍が東方正教会エルサレム大司教を追放しカトリックの司教をおいたことで、溝が深まった。


(5)東ローマ帝国滅亡
ビザンティン帝国は、第一回十字軍によって十字軍諸国が設立されたことで、直接にイスラム諸国からの圧迫をうけることがなくなった。これによってアナトリア地方の支配権を大きく取り戻し、ふたたびとりあえず命脈を保つことができた。しかし、コンスタンティノープルは第四回十字軍に滅ぼされ、その後1261年に復活したもののその打撃から立ち直れずに衰退し、1453年滅亡に至る。
(6)イスラム諸国は西洋諸国とキリスト教の蛮行に対して決定的に憎悪を抱くことになった。それは今日まで続いている。


(7)近現代への影響
 十字軍はイスラムから見れば侵略軍である。2003年のイラク戦争において、アメリカのブッシュ大統領は、自軍を十字軍と表現したが、イスラム圏からの反発によって、すぐに撤回した。また、一部のイスラム教徒は、21世紀の今日でも、イスラエルへの支援やイラク戦争など、中東に対する欧米のあらゆる関与を「十字軍」と呼んで糾弾している。
 これは東方正教会から見ても同様であり、直接攻撃と略奪を受けた東ローマ帝国を始めとする東方正教会諸国の対西欧感情は、決定的に悪化した。これ以降何度か東西キリスト教会再統一の試みがあったものの、正教徒の人々の強い反対と、交渉の間にも時代を経て教義の差が開いたことから実現することなく現代にまで至っている。更には十字軍と並行して西ヨーロッパでユダヤ人迫害が起こったため、ユダヤ人からも十字軍は忌避されている。
 西欧においては、十字軍は西欧がはじめて団結して共通の神聖な目標に取り組んだ「聖戦」であり、その輝かしいイメージの影響力は後日まで使われた。後の北方や東方の異民族・異教徒に対する戦争ほか、植民地戦争などキリスト教圏を拡大する戦いは十字軍になぞらえられた。また異国への遠征や大きな戦争の際には、それが苦難に満ちていても、意義ある戦いとして「十字軍」になぞらえられた。         

2000年、当時の教皇ヨハネパウロ2世が十字軍について謝罪した。 
                       
●教訓と課題
(1)戦争と旧約解釈
 年代記作者は十字軍の戦いを旧約の出来事になぞらえて記し、当時の人々も旧約の出来事と十字軍を重ね合わせて、この侵略戦争の正当化を図った。すなわち、十字軍の聖地への旅は出エジプトの民の旅と重ね合わせられ、エルサレム攻略はエリコ攻略と重ね合わせられる。そこでは当然、殺戮戦が聖戦として正当化された。
 旧約時代、神はイスラエル国家を選び、確かに彼らを神の警察や司法として用いた。しかし、新約時代においては「ユダヤ人もギリシア人もローマ人もない」。神の民は特定の国家や民族に限られない。だから特定の国家が神の警察や司法ではありえず、したがって聖戦などはありえない。むしろ、主イエスは非戦・愛敵を唱え実行された。古代教父たちも非戦の立場が基本であった。中世の好戦的なゲルマン的ヨーロッパに受容されたとき、福音が歪められたといわねばなるまい。

 

(2)この世の権力と教会の問題、evil religion の問題
・・・超越性を失ったキリスト教は塩気を失った塩である。
 教会が世俗の権力と結びついたとき、教会は塩気を失った塩になってしまった。特に世俗権力とは「剣の権能」(ローマ13章)であるゆえに、教会が暴力装置を持つことを意味する。御言葉の剣が暴力装置を備えるということが、どれほど危険なことであるか。
 教会が超越者である神からのメッセージを失い、この世に迎合するという問題は、近代に敷衍ふえんすると、これは市民宗教の問題となる。市民宗教とは、そのときの社会を支配するエートスイデオロギーと合致していて、それゆえに広く支持されている単純な宗教思想のことである。民族性や社会の利害と合致するので支持されているのであるが、聖書とは直接関係のないものである。J.J.ルソー「社会契約論」における理性の女神をあがめる市民宗教の創設は、そのことである。クリスチャン=資本主義、共産主義=サタンの教えなど。
 
(3)戦争と西欧型キリスト教の問題性
① 主イエス新約聖書コンスタンティヌス以前は、非暴力・愛敵主義。
② コンスタンティヌス帝による公認とその後の国教化によって変質する。
  教会が世俗権力と結ぶときに、義戦論が生まれた。ただし、アウグスティヌスの義戦論は制約の多いものだった。
③ 十字軍(12世紀~14世紀)に、白人による異教徒の有色人種殲滅という構図ができた。
④ 15世紀大航海時代には中南米先住民の殺戮。
⑤ 16世紀宗教改革でも戦争に関しては義戦論の伝統維持。
⑥ 17世紀ピューリタンが新大陸に渡って、先住民殺戮(1500万人が現在では30万人に)
 1899~1902年には米国はフィリピン人をスペイン・カトリックから解放すると称して、スペイン軍を撃退したが、その後、植民地支配を邪魔するフィリピン独立運動を弾圧してルソン島で60万人を殺戮した。
 20世紀 東京大空襲・原爆投下による無差別殺戮。
      

 ベトナム戦争では300万人の無差別殺戮。それを米教会は支持した。
 21世紀 アフガン戦争、イラク戦争
 
「問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」
 (リチャード・フォン・ヴァイツゼッカー「荒野の四十年」)

 

参考資料:水草修治「キリスト教会史講義ノート東京基督神学校

井上政巳監修「キリスト教2000年史」いのちのことば社

久松英二ほか「一冊でわかるキリスト教史」日本キリスト教団出版局

 

(文責:川﨑憲久)