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第四章 近現代の教会 1.大航海時代と世界宣教―近代キリスト教の前提(~17世紀)

 15世紀中ごろから17世紀中ごろにかけて、西欧諸国による世界各地への大規模な航海が行われた。この大航海時代は、カトリック教会による世界宣教が推進された時代であり、近代キリスト教が西欧から世界へと拡大する基礎が形成されることになった。
 
(1)世界宣教の動向
①対抗宗教改革イエズス会
宗教改革は、西欧のキリスト教統一世界を解体させ、西欧近代が成立する前提となった。これは、プロテスタント世界にのみ当てはまることではなく、宗教改革以降、カトリック世界は対抗宗教改革によって体制を整えつつ、近代へと歩み始めることになった。注目すべきは、対抗宗教改革の場となったトリエント公会議(1545~1563)と近代カトリックを担うイエズス会の登場である。
「近世」で論じられたように、トリエント公会議は1545年に開催された。たびたび中断されたが18年間にわたって継続され、近代以降のローマ・カトリック教会の基礎はここで確立された。トリエント公会議神聖ローマ帝国皇帝カール5世の協力があった。もともとはプロテスタントとの分裂を回避し妥協点を見出すことが目的で、第二会期ではプロテスタント代表者のオブザーバー出席を求めていた。しかし、結果的に以下の点について確認し、カトリックとしての独自性を強調し、プロテスタント陣営の主張との違いを際立たせることになった。第二バチカン公会議に至るまでカトリック教会の方向性に大きな影響を与えたのである。


①ニカイア・コンスタンティノポリス信条の確認。②第二聖典も正典であること。③聖書と聖伝が教えの拠り所であること。④ウルガータ訳がカトリック教会の唯一の公式聖書であること。⑤救いは恵みであり義化の根本でありつつ、人間協働にも意味があること。⑥七つの秘蹟の再確認…等。
こうしたカトリック教会の刷新の一翼を担ったのが、1534年に「教皇の精鋭部隊」としてイグナティウス・デ・ロヨラらによって創設されたイエズス会である。イエズス会は、教皇パウルス3世(在位1534~1549)により正式に認可されたが(1540)、高等教育を中心とした教育活動と社会正義事業を推進することによって、プロテスタントに対するカトリックの防波堤として活動した。特に注目すべきは、イエズス会が世界各地への宣教活動を重視した点である。ここでは、ラテンアメリカイエズス会の宣教を取り上げてみる。
1549年にはブラジルにおけるイエズス会士(マヌエル・ダ・ノブレガ、ホセ・デ・アンチエタら)による宣教が開始された。その後、宣教はペルー、メキシコを経て、フロリダとカリフォルニアに到達する。イエズス会の世界宣教の特徴として、適応主義と呼ばれる基本方針、つまり、宣教地の文化や言語を学び、現地の宗教的文化的状況に適応した宣教方針が挙げられる。こうした方針は大きな成果をもたらす一方で、さまざまな軋轢をも生むことになった。たとえば、インディオを保護しようとするイエズス会員はスペインとポルトガルの奴隷商人及びそこから利権を得る政府高官には目障りであったため、のちにポルトガルによるイエズス会への迫害が実施される。またヨーロッパ諸国が絶対王政のもとでナショナリズムを強めるにつれて、列強にとって国境を越えて自由に活動し教皇への忠誠を誓うイエズス会は邪魔な存在となり1773年に、クレメンス14世(在位1769~1774)によりイエズス会は解散されることになった。(1814年にピウス7世〈在位1800~1823〉によって復興)
 
ポルトガル・スペインの世界戦略=世界分割
 ポルトガル王国は13世紀までレコンキスタイスラムからイベリア半島を奪還する運動)をほぼ完了した。15世紀にはヨーロッパ各国に先駆けて海外進出を行い、アフリカ西岸からインド洋を経て、東アジアへと通商圏を拡大する。しかし1492年にコロンブス(スペインが派遣)がアメリカ大陸に到達した直後からポルトガルとスペインの対立が表面化した。1493年に教皇子午線が設定され、その東をポルトガル、西をスペインが領有することが認められたが、1494年のトルデシリャス条約で分界線が西経46度37分に変更される(18世紀には無効化)。それは、スペインが南北アメリカ大陸の大部分を、ポルトガルがブラジルを領有する根拠となった。
 ポルトガルとスペインの国王は植民地における福音宣教と教会管理とを教皇から委託され(教会保護権または布教保護権ともいう)、イエズス会をはじめとした西欧の諸修道会(ドミニコ会フランシスコ会など)が世界各地で宣教を開始するのに必要な援助を与えた。こうして植民地経営と宣教とは緊密に関係づけられることになる。カトリックの世界宣教と列強の世界戦略の一体化は、後のプロテスタント教会の世界宣教にも受け継がれることになる。
 
(2)ウェストファリア体制と国民国家
三十年戦争後のヨーロッパ秩序
 三十年戦争(1618~1648)は、カトリックプロテスタントの対立による最大かつ最後の宗教戦争と言われる。それはドイツの国民国家としての統一を不可能にすることによってドイツの後進性を確定したにとどまらず、西欧全体の政治的状況を一変させることになった。近代世界のはじまりをここに見ることも可能である。三十年戦争の背後には複雑な国際関係が存在していたが、大枠としては、「フランス王国ブルボン家)とネーデルランド連邦共和国の連合」対「スペイン・オーストリアの両ハプスブルク家」との覇権をめぐる戦いと解することができる。その結果、三十年戦争講和条約であるウェストファリア条約が示すように、神聖ローマ帝国ハプスブルク家というヨーロッパの広域勢力はその影響力を大幅に低下させ(帝国内の領邦に主権と外交権が認められた=帝国解体)、それに対して、ネーデルランドとスイスはハプスブルク家の支配からの独立が承認され、カルヴァン派も容認された。
こうして、ヨーロッパ秩序は、皇帝や教皇といった超国家的な権力によって維持されるのではなく、対等な主権を有する諸国民国家の競合関係によって規定されることになる。これがウェストファリア条約体制と呼ばれ現在に至る近代的世界秩序のはじまりであり、キリスト教会もこの体制によって規定されることになる。
 
 ②絶対王政から国民国家
 近代ヨーロッパを構成する国家(国民国家)とキリスト教の教派分布とは必ずしも重なり合うものではない。そもそも国民国家を基礎単位とするヨーロッパ秩序は一挙に形成されたわけでもない。国民国家形成は絶対王政という第1段階から市民革命・ナポレオン戦争を経た第2段階へと進展するが、この展開過程こそが近代的なヨーロッパ世界の形成過程だったのである。この過程がもっとも劇的に進行したのはフランスであった。フランスはブルボン家絶対王政君主制)がフランス革命ナポレオン帝国を経て共和制へと移行する中で、イギリスと共に、西欧の諸国家に先駆けて国民国家体制を確立した。しかしこの間の政治体制の変動にもかかわらず、フランスのキリスト教は、カトリックを中心としたものであり続け、現代に至っている。
 宗教改革(特に改革派)の進展によって、フランスにおいてもカトリックプロテスタントの対立が激しくなり、1562年に、ユグノー戦争と呼ばれる宗教戦争(休戦もはさんで1598年まで)に発展した。この内乱は、アンリ4世(在位1594~1610)が王位についてカトリック教会に復帰することによって終結したが、その際に出されたナントの勅令はユグノー(新教徒)の信教の自由を認めるものであり、フランスの統一は保たれた。その後、その後、ブルボン家絶対王政は強化され、ルイ14世(在位1643~1715)のときに最盛期を迎えたが、彼はガリカニズム(教皇の絶対権に対抗して、フランスのカトリック教会をフランス王権のもとに置こうとする立場)に基づく宗教政策を実施し、ナントの勅令を廃止した(1685)。しかしこのブルボン家絶対王政フランス革命によって終わりを告げ、革命政府はフランスの世俗化を推進しようとした。しかし国民の大多数がカトリックの復興を望むことが明らかになり、1801年にナポレオン(在位1804~1815)は教皇ピウス7世(在位1800~1823)と政教協約を締結した。その結果、カトリックは国家の宗教ではないものの、国民の多数の宗教であり続けている。
 
 こうして国民国家の段階に至った西欧近代においては、現実のキリスト教の動向はカトリックプロテスタントという教派的な対立関係よりも、むしろ宗教と世俗社会との対立関係によって規定される傾向をしだいに強めることになった。
 
(3)西欧各国のキリスト教
 ①ヨーロッパ諸地域のキリスト教
 宗教改革と続く宗教戦争によって混乱に陥った西欧の宗教地図(諸教派の地理的分布)もしだいに安定化に向かうことになった。三十年戦争終結する頃にはおおまかに次のような形で定着し、現在に至っている。
 北欧、ドイツ:ルター派
 オランダ、スイス:改革派
 イギリス:イギリス(イングランド)国教会
 イタリア、フランス、スペイン、ポルトガル、ドイツ南部、ポーランドカトリック
 
 ②正統主義と敬虔主義
 カトリック教会が刷新を進めつつあった頃、プロテスタント諸教派(中心的な位置を占めるルター派と改革派など)は、相互に教義論争を行い、聖職者養成のためにそれぞれ独自の神学思想の体系化を図った。これは、神学の体系化という点から新スコラ主義とも評せられるが、この思想形成がなされた17世紀を中心とした時代は、各教派の思想基盤が構築されたという意味で正統主義時代とも言われる。各教派の立場は、信条・信仰告白文書として表明された。
 正統主義は、各教派の立場を明確に反映したものではあるが、いずれも宗教改革の伝統を共有しており、聖書原理(形式原理)と信仰義認論(内容原理)においては合致している。たとえば、聖書が客観的に神の言葉そのものであるという認識は、聖書が無条件に真理であり無謬であること、そして霊感説に帰結することになる。こうした認識を共有した上で、ルター派と改革派の相違は、宗教改革者以来の争点であった聖餐論において典型的に現れており、それは教義全般から教会制度にまで及んでいる。ルター派正統主義は、『一致信条書』を土台とし、ヨーハン・ゲルハルトの『ロキ・コンムーネス・テオロギキ(神学総覧)』などに集大成され、改革派正統主義の神学的傾向は地域的に多様であるが、予定説において特徴的であり、アルミニウス主義の論争を引き起こし、契約神学(コクツェーユスら)を生み出した。
 
 以上の正統主義はいわば信仰の知性主義あるいは客観主義(教理を個人の主観的理解に先行する客観的な存在と捉え、信仰を教義の知性的理解と規定する)に向かう傾向を有しており、17世紀後半には敬虔主義からの批判を受けることになる。
 敬虔主義は、正統主義が確立する中で、プロテスタント教会(狭義にはドイツのルター派)内部から生まれた信仰刷新運動であり、宗教改革の伝統が客観主義に傾く中で、ルターの精神的遺産の更新と深化を目指し、個人の体験(内面性)において啓示される真理と信仰の道徳的実践を強調した。シュペーナーからはじまったこの覚醒運動は、北ドイツに広まり、フランケによって拡大された(ハレ派)。その影響を受けたツィンツェンドルフは「モラビア兄弟団」(ヘルンフート兄弟団)を結成し、ヴュルテンベルクでは、ベンゲルやエッティンガーに指導された市民と農民層を基盤に穏健な大衆的敬虔主義(ヴュルテンベルク派)が展開し、敬虔主義運動は改革派にも波及した。
 宗教改革的伝統の多様性の中で特筆すべきことは、再洗礼派(神秘主義スピリチュアリズムと重なる)の存在である。再洗礼派自体は多様な流れによって構成されているが、自覚的な信仰を強調し幼児洗礼を否定する点で一致しており、世俗から離れた信仰生活を追求する平和主義と無抵抗の集団形成(兄弟団)を基調にしている。自覚的な信仰の強調は宗教改革の正当な遺産と言えるものであるが、それが幼児洗礼否定となって表明されるとき、再洗礼派はほかの諸教派から徹底的に排除され、西欧各地からロシアそして新大陸アメリカへ、さらには世界各地へと自由を求める旅を続けることになった。
 
 ③カトリック教会の多様性
 西欧のプロテスタントキリスト教が内部に教派の多元性を抱え込んでいるように、カトリックにも様々な多様性が存在している。たとえば、ベネディクト修道会(6世紀)を基点に、13世紀にはドミニコ会フランシスコ会などの托鉢修道会が成立し、宗教改革期にはイエズス会が出現することによって形成された修道制における多様性である。
 その他にも17世紀以降のフランスで展開する教皇至上主義(ウルトラモンタニズム)とガリア主義(ガリカニズム)の対立を挙げることができる。しかも、修道制の多様性とガリカニズムとは、ルイ14世の宗教政策、つまりパスカルとの関りでも知られるポール・ロワイヤル修道院ヤンセン主義)を取り巻く状況(神の恩恵と自由意志をめぐるイエズス会との論争)において結びつくことになった。すなわちガリカニズムを推進したルイ14世は、自らの正統性を疑われないために、神の恩恵と人間の自由意志との関係をめぐってイエズス会と対立していたポール・ロワイヤル修道院を解散させた。しかし、ポール・ロワイヤル修道院が実はルイ14世ガリカニズムを支持していたのである。ここに、フランス王権の錯綜した立場と、カトリック教会内部における複雑な対立状況を見て取ることができる。
 
(4)新大陸のキリスト教
 ①南アメリカキリスト教の動向
 アメリカのキリスト教は、コロンブスアメリカ大陸到達以降、まずカトリック教会として出発した。先に見たようにブラジルはポルトガル領となったが、スペインはコロンブス以降、ピサロやコルテスらを派遣して、その勢力範囲を着実に拡大していった。カトリック教会のラテンアメリカでの宣教活動は、ポルトガル、スペインの植民地征服と一体化して推進されたが、しかし銀を収奪し文明を破壊しインディオを奴隷とした征服者たち(コンキスタドレス)と、カトリックの宣教師たちとの間に緊張関係が存在したことも否定できない。たとえば、インディオの奴隷化に反対したドミニコ会士バルトロメ・デ・ラス・カサスは、スペイン支配の不当性を訴え続けた。
 海洋帝国として繁栄したポルトガルとスペインの覇権も、16世紀後半にはしだいに衰退に向かい、覇権は次の国家へと移動することになる。それを決定づけたのが、1588年のイングランドによるスペイン無敵艦隊アルマダへの勝利であり、覇権は、オランダ、フランス、そしてイングランドへ移る。17世紀に入り、イングランドアメリカへの本格的な進出を試みるが、もはや以前のスペインのように黄金郷を夢見て王室の資金を当てにするといったものではなかった。それは、国王からの特許状と市民からの共同出資に基づき、土地を開墾し、居住地を建設するという事業である。
 
 ②イングランド植民地のキリスト教
 イングランドの植民地経営は、事業請負会社によって行われた。ジェームズ1世から最初の特許状を獲得したのは、「プリマス会社」と「ロンドン会社」(のちに「ヴァージニア会社」)であり、入植者たちはジェームズタウンを建設した(ヴァージニア植民地)。しかし、ジェームズタウンの経営は困難を極め、24年には王領となった。
 メイフラワー号に乗ったピューリタン入植者(ピルグリム=ファーザーズ)の登場は、この頃の出来事である(1620)。ピルグリム=ファーザーズは、キリスト教信仰の自由を求めた分離派のグループであり、上陸に先立って船上でほかの植民者たちと政治的な市民共同体を樹立することを契約した(メイフラワー契約)。彼らはプリマスに定住し、ニューイングランド植民地の基礎を作った。18世紀前半までにイングランドの植民地は13を数えるまでになったが、メイフラワー号はアメリカがめざす信教の自由の象徴となった。
 もちろん、北アメリカに植民地を建設したのはイングランドだけではなく、ニューアムステルダム(のちのニューヨーク)を建設したオランダ、あるいはフランスも領土拡張を試みた。しかしフレンチ=インディアン戦争(1756~1763)においてイギリスがフランスに勝利した結果、イギリスの植民地帝国が確立されることになった。
 
2.近代市民社会の成立とキリスト教(18世紀)
(1)啓蒙主義と革命・独立
 近代以降の西欧キリスト教は、近代市民社会の秩序の中で存在してきたが、それはキリスト教にとっていわば両義的な存在(親和性を有するとともに対立的な)と言える。本節ではまず、近代市民社会キリスト教との積極的な関りを中心に考察を進めることとする。
 
 ①啓蒙主義と合理的神学
 キリスト教は近代市民社会の中心思想と言える啓蒙主義としばしば戦いつつも、近代初期の段階から近代思想との積極的な関係構築を試みてきた。その代表は、イギリスを起点とした理神論であり、先駆者であるエドワード・ハーバート(チャーベリー卿、1581/83~1648)は、すべての宗教に共通する5つの真理(神の実在性、神礼拝の義務、神崇拝の美徳性、罪の悔い改めによる礼拝の倫理性、彼岸と此し岸がんにおける神の賞罰)を示し、伝統的なキリスト教を近代合理性に適応するものへ改変することを試みた。理神論の伝統は、ロック(キリスト教の合理性)やトーランド(啓示や預言、超自然的奇蹟の否定)、クラーク(神の摂理を物質的秩序に限定)に受け継がれ、その影響はフランス啓蒙主義ヴォルテール、ルソー)やドイツ啓蒙主義(レッシング、カント)に及んだ。18世紀中頃から19世紀にかけてのドイツ・プロテスタント神学を規定したネオロギー(新しい教説)は、近代合理主義の思想潮流が神学に対しておよぼした影響の典型例と言える。この動向は国民国家の国境を越え、教派の相違を超えた広がりを示している。
 しかし、そのような流れは、聖書主義に立つ伝統的なキリスト教会からは、人間の理解の中に神を引き込む考え方であり、聖書が指し示す真理から外れていると問題視されている。
 ここに、キリスト教会は聖書をなんと捉えているかが、この問題の中心テーマでもある。聖書をまず他の古文書と同等に、人間によって書かれた誤りの多い書物とするのか、それとも、神が特定の人を選び、聖霊によって特別に導き、誤りなき神のことばとして記された、神の啓示の書として捉えるか。
 それによって、聖書の読み方が変わってくる。誤りなき神のことばとするならば、一見わかりにくい箇所や、誤っているように思える箇所も、私たちの側が不完全なので、神が聖書によって啓示していることをすべて理解しきれていないと解釈するが、聖書が単に古文書であるだけならば、読み手の常識を尺度に、理解できないものは、聖書に誤りがあるか、別の事柄に置き換えて解釈する。
 私たちが神を求めていくのか、それとも私たちの理解に収まる神を造るのか。
 
 
 ②アメリカ独立以前のキリスト教
 北アメリカにおけるイギリスの植民地経営は、特許状の存在が示すように本国の政治状況に左右されるなど、多くの問題を抱えていた。メイフラワー号で信教の自由を求めてやってきたピューリタンからはじまったプリマス植民地も、1691年にはマサチューセッツ港湾植民地に吸収されることになる。
 イギリスの13植民地の中で北部に位置する、プリマス植民地群(ニューイングランド)は「公定教会制」という独特の社会制度をもっていた。行政組織は教会内の論争・紛争に公職の立場から干渉することはなく、聖職者(牧師)が政治的な公職につくことはない。しかし市民政府は人間の罪に起因する異端や犯罪から公共の秩序を守り、神との契約を履行し、キリスト教を擁護する義務を負っている。つまり、政府と教会は協力して神の法に従わねばならず、市民社会に属する人々は教会員でなくとも教会財政を維持する役割を担っていると考えられた。市民は公定教会以外の宗教を選択する自由を有していなかったのである。こうした公定教会制に対しては、信教の自由の立場から批判がなされたが、ニューイングランドで尊重されたのは、信仰の自由を求めてイギリスから入植した自分たちの信仰なのであり、クエーカーなどのほかの教派や無神論者の権利ではなかったことに留意しなければならない。
 ピューリタン的背景と共に、アメリカのキリスト教史を特徴づけるものとして、繰り返された信仰復興運動を挙げることができる。独立以前のものとしては、1730年代から70年代にかけての信仰復興運動(第1次大覚醒)が重要である。これは18世紀に近代合理主義に抗して進展した西欧社会における宗教リバイバル(敬虔主義、メソジストを含む)の一環として位置づけられるものであるが、植民地各地の教会はリバイバル集会を開催し、多くの者を回心体験へと導いた。この大覚醒の指導者としてジョナサン・エドワーズとジョージ・ホイットフィールドが挙げられる。エドワーズはノーサンプトン教会での説教を通して多くの人々の信仰を覚醒させた説教者であると同時に、自然科学から倫理学や歴史哲学までを論じた思想家であり教育者でもあった。それに対してホイットフィールドは説教者として各地を巡回した人で、身振り手振りを交え声を張り上げるその説教スタイルはほかの説教者にも受け継がれた。リバイバル運動については、アメリカ独立への影響などさまざまに論じられているが、それがアメリカの宗教性に大きく作用し、「アメリカ人」意識の一端を担うことになったと言える。
 
 以上に対して、アメリカ独立の指導者となった人々(ワシントン、ジェファソンら)はアメリカのキリスト教の別な面を表している。それは、先に見た理神論に遡る啓蒙主義的な合理的宗教性である。しばしばフリーメイソンとの関りが指摘されるのはこの文脈である。もちろん、狭義の理神論をここに指摘することは困難であるが、たとえばロックの抵抗権思想や寛容論はアメリカ合衆国憲法の背景をなしており、独立の指導者たちが伝統的な公定教会制を超えて、権利としての信教の自由を肯定することを可能にした。
 
 ③フランス革命のフランスにおける影響
 フランス革命は、近代ヨーロッパの政治的思想的運動である啓蒙主義の帰結と言えるものであり、近代の民主主義的国民国家の展開において重要な位置を占めている。しかし、その合理主義は伝統的なキリスト教への批判を伴うものであり、フランスの中心的な教派であったカトリック的基盤は持続することになるが、1789年に議会は教会財政の没収、国有化を行い、司教司祭の実質的な公務員化を断行した。この動向への対応をめぐり教会は分裂状態となり、それは1801年にナポレオンとピウス7世との政教協約の締結まで続いた。その後、ブルボン王家の復活により旧体制の再現がめざされたものの、王政復古の失敗(1830年7月革命)などの紆余曲折を経て、フランスは世俗主義の共和制国家を基調として現在に至っている。
 
(2)信教の自由と政教分離
 ①イギリス国教会聖公会
 すでに論じられてきたように、、イギリスの宗教改革は、ヘンリー8世の国王至上法(1534年)からトップダウンで開始され、メアリー女王のカトリック復帰の企てがあったものの、エドワード6世からエリザベス1世へと進展し、イギリス国教会が確立された。その後、絶対王政・不寛容な国教会と共和制・ピューリタンの対立(17世紀)と王政復古を経て、名誉革命によって、穏健な立憲君主制と寛容な国教会、そして政教分離の成立に至る。
 こうした経緯において成立したイギリス国教会は、よりカトリックに近い流れ(ハイ・チャーチ)とよりピューリタンに近い流れ(ロー・チャーチ)、そして近代的なリベラリズムに近い流れなどの多様な立場を内包するものであり、これらの多様性を包括し偏らない点(ヴィア・メディア)にイギリス国教会の最大の特徴を見ることができる。  17世紀から18世紀に至るイギリス神学はこのヴィア・メディアをめぐりそれを保持する努力であったと言える。王政復古期に活躍し「カロライン・ディヴァインズ」と呼ばれる神学者たち(ランスロット・アンドルーズ、ジョージ・ハーバートジョン・ダンなど)は、伝統的なカトリック神学を再生させ、古代教会との連続性を確保する形で(本来の意味でのカトリック性〈普遍性〉)ヴィア・メディアを実現しようとした。それに対して、17世紀のケンブリッジプラトニストと呼ばれたグループは、近代自然科学の急速な発展に対して、神の創造行為のなかに人間理性の根拠を確保し、カトリシズムとプロテスタンティズム、あるいは理性と信仰の対立構造を克服する手がかりをプラトン主義に求めた。この伝統は理神論者エドワード・ハーバートに遡るが、ラルフ・カドワースはその代表である。
 
 ②立憲君主制と民主主義
 フランス革命に注目する場合、近代とキリスト教とは対立的であると思われるかもしれない。しかし、それは一面的な印象に過ぎない。近代的な制度や価値は、キリスト教的伝統と想像以上に緊密な関りにあるのである。イギリスの政治哲学者リンゼイ(1879~1952)によれば、近代の議会制民主主義の母体となったのはピューリタンの教会会議の経験であった(リンゼイ・テーゼ)。これは「ルターの全信徒祭司論→平等な人権→同意に基づく政治=民主主義→普通選挙権」という一連の流れによって表現できる。リンゼイは、パトニー討論の速記議事録を分析することによって、そこに近代民主主義の3つの原理を見出している。
・同意の原理:民主主義は主権者としての国民の同意に基づいており、それは、普通選挙権を要求する。
・討論の原理:同意は討論の結果到達されるものであって、決して討論の前提ではない。これは「神の意志」の発見をめざす、教会会議の経験に基づく。民主主義は意見の多様性から出発し合意を目指す。
・集いの意識:代表者である政治家が、国民の代表としての責任を自覚しつつ、議会という討論の場に集う時、討論は民主主義の名にふさわしいものになる。
 
 こうして培われた民主主義の精神は、名誉革命(1688)を経て、議会を尊重する穏健な王政としての立憲君主制に結実することになる。