のりさんのブログ

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急進的思想へのブレーキと半クラッチの重要性

 振り子現象という言葉があります。物事にはいつも作用と反作用があって、その振り切ったMAX状態は常に次の反作用に悩まされます。

 

 戦争に反対すると平和が訪れると考えますが、戦争を起こさないように規制を強めるとそこに軋轢が生まれて、結局、社会が監視体制という圧迫を生み出し、そこからまた新しい反発運動が起きて来るでしょう。

 絶対平和、絶対平等、絶対自由、絶対寛容など、それぞれの単独の意味そのものは良いものでも、絶対化していくときに、それは反動の極限となり、まさに急進的な力によってバランスを失うのです。

 キリスト教会にも同じことが言えるでしょう。ローマ・カトリック教会への反発で宗教改革が起こりプロテスタント諸教会が生まれました。しかし、そのプロテスタント諸教会が生まれても、当時はまだローマ帝国の国教となってから1000年以上もキリスト教会と国家の結びつきは強く、非カトリックとなった教会も国家とは切り離せない状況でした。

 それは、教会への加入である幼児洗礼イコール出生届であり、戸籍に名前が記され税収にとって欠かせないシステムだったからです。

 ところが、そのような長い歴史から来る慣習の中で、教会を国家から切り離そうとする急進的なグループも生まれて来ました。それがアナバプテスト派と言われる人たちです。ただし、このグループはアナバプテストとして一体化したものではなく、散発的に各地で起こった運動であったため、その地域ごとに国家官憲とその国家としての国教会となった他のプロテスタント諸教会からの弾圧に遭うのです。

 現代では自由教会は当たり前ですが、当時ではその運動自体が急進的であったため、この運動から生まれたグループを急進派とも言います。

 つまり、それはカトリック教会に対する反動として生まれたプロテスタント諸教会だけで終わらず、更に振り切ってしまった状態となったのです。

 それによって、それを迫害していたプロテスタント諸教会の中からも自由教会が生まれていき、会衆派教会も生まれてきたのは事実でしょう。

 しかし、急ハンドル、急ブレーキ、急発進は、いかなるときにも、それは対処療法としては一時的に効果はあるものの、根本的な解決にはいつまでもそのままで良いわけではありません。

 いつでも、急進派としての自覚でいるならば、必ずそこに無理が起こり、極端な聖書解釈、行きすぎた教会形成等、バランスを欠いた教会政治となって、必ず崩壊する時が来るでしょう。

 大切なことは、カトリック教会であるとか、ルター派であるとか、メノナイト派であるというセクトに生きようとするのではなく、神のことばは何と言っているかを謙虚に聞くことがキリスト教会にとって最も大切なことではないでしょうか。

 キリスト教会の間違いは途中から聖書にきちんと聞かなくなったことでしょう。初代教会時には、聖書と言えば旧約聖書しかありませんでしたが、そのうち教会が形作られていくなかで、新約聖書も整えられていきました。

 それらの文書が早くから聖書のように読み回されて諸教会に重んじられていたことは既に書簡から知ることができます。そして、教父時代となって聖書化し、ミラノ勅令から始まるローマ帝国によるキリスト教認可とそれに続く国教化によって、旧新約聖書があらためて4世紀には聖書として確認されました。

 しかし、その後、ローマ教会は聖書だけでなく伝統や偽典、外典からも教理を作り出し、聖書の権威を曖昧にしたため教会が乱れ、初代教会からのキリスト教会としての真髄が失われていきました。そこで、16世紀に宗教改革が起こるのですが、聖書のみ、信仰のみと言ったルターさえも聖書全巻にある神の権威を認めつつも、ヤコブ書を藁の書と言って蔑むなど、その姿勢はバランスを欠いていました。

 だから、その後もプロテスタント教会としての舵切りは良かったのですが、キリスト教会としての健全化への道は険しかったのです。しかし、次第に聖書のみというプロテスタント教会の原点を大切にする動きが加速しました。

 それは、18世紀に自由主義神学が生まれ、啓蒙主義実存主義の影響を受けた人々がこれまでの絶対化していた宗教の権威を相対化させていったからです。教皇による権威主義への反動だけでなく、聖書の権威をも同等とみなし、そもそも初代教会以降、ローマ教会が、聖書が神の啓示の書として正式にその権威を曖昧にしていたことよりも更に深く、聖書の権威を認めず、他の書物と同等においてしまったのでした。

 神の啓示について思い巡らすならば、旧約時代には預言者を起こして、その御旨を伺いましたが、そこから救い主キリストを遣わしみことばを語りそれを使徒たちに記録させました。また、その使徒たち、そして新約時代の預言者と呼ばれる人たちに聖霊が働き新約聖書を書かせ、それを纏めさせたのです。

 それが現在、66巻の書を一つに合わせて聖書として、神のことばが完成したのです。ここには、神が私たちに教えようとされている一切のことが書かれていると言えます。だから、現在では旧約時代のような預言者は存在せず、神の言葉を取り次ぐものは、必ず聖書をとおして、聖書が伝えていることを説き明かすのです。

 そういうわけで、聖書が完成した今は益々キリスト教会として、この聖書から離れてはなりません。この聖書を軽んじてはなりません。ローマ教会の過ちを繰り返してはなりません。

 誤った反動としての急進的な態度はいけません。大切なのは振り子現象の振り切り状態を緩和させることでしょう。それは聖書のみことばが伝えているように、聖書のことばは絶対でも、自由とか平和とか平等が絶対化することは危険です。

 平等の名の下に、マイノリティの不満を結集して、そのストレスを公にして逆に社会に対してのハラスメントを拡大しているならば、その強権なあり方自体がまた新たな急進的な反動となって、世界を混乱させるのです。

 やはり、あらためて神の言葉である聖書に耳を傾けましょう。そして、極端な意見を聖書から抽出するのもやめましょう。聖書を恣意的に扱うならば人を殺すことも正当化できます。しかし、そうであってはなりません。聖書を自分の意見を正当化する道具にするのではなく、創造主である力あるお方の意思、御心を知るラブレターとして読み、聴き、へりくだって、罪深い私のために御子さえも惜しまずに捨ててくださった、大いなる愛ときよさを受け止めてまいりましょう。

 罪人を救うのは、そもそもが神は私たちを愛しているからです。価値のないものにどうして命を賭ける意味があるでしょう。私たちは自分のことを価値がないと思っていても、神はそうではないのです。神はあなたを、いのちを捨てるほど愛しているのです。その御心に今日も触れてまいりましょう。

 そこから、福音に生きる一歩が始まるからです。アクセルもブレーキも急はいけません。聖霊に助けられながら半クラッチでじわじわまいりましょう。

 すり減ったクラッチ板は必ず聖霊が修復してくださいます。安心してまいりましょう。

 

"同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。
人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。"
ローマ人への手紙 8章26~27節
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