のりさんのブログ

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イングランドの宗教改革(イングランド国教会〜ピューリタン運動〜クェーカー派まで)

5.イングランド宗教改革
 宗教改革は海を越えてイングランドにも伝わり、新しい諸教会を形成した。以下ではイングランドにおける宗教改革の導入とイングランド国教会の成立、それに対するピューリタン運動の展開、さらにその中で形成された諸教派について概観する。
 
(1)イングランド国教会の形成
 イングランドでは1520年代はじめよりルターの神学が議論され、信仰義認論や教会批判が広がりを見せていた。しかしイングランド宗教改革は教会批判や神学議論からではなく、絶対主義王政の形成過程の中で政治的なものとして始まった。
 
宗教改革の始まりとイングランド国教会の形成
 イングランド宗教改革を導入したのは、国王ヘンリー8世(在位1509~1547)であった。彼は元来、宗教改革に否定的でルターの書を禁止し、彼の「教会のバビロン捕囚」を批判していた。しかし後継者問題で王妃キャサリンとの離婚を望むが教皇に認められず、それを機にローマ教会から独立して自国の教会を設立し、イングランドの主権確立を試みた。ここにイングランド国教会の形成が始まる。ヘンリーはローマの影響を退けるため、ローマ教皇への支持を反逆罪と定め、司教は国王自らが任命し、教皇への上訴と上納金を禁止した。そして国王至上法により国王を教会の首長とし、否定者は大逆罪法により処刑した。トマス・モアをはじめ、司教や多くの修道士がこれにより処刑された。
 さらにこの政策の結果、カトリック諸国からの攻撃の危険が生じたため、ヘンリーは軍事費捻出のためにすべての修道院を閉鎖して財産を没収した。またドイツのシュマルカルデン同盟に加入するため、ルターの神学を取り入れた信仰箇条「10箇条」を定め、聖書主義、サクラメント論、信仰義認を受容した。国内には聖職者や指導者層など多くの改革支持者が現れ、英訳聖書が許可され、主の祈りや十戒、連禱の英訳もはじめられた。
 本格的な改革はエドワード(在位1547~1553)の時代に導入された。カンタベリー大司教クランマーにより、聖像の撤去や聖餐(二種陪餐)の導入、聖職者の結婚許可が進められた。また祈祷書がプロテスタント的に改訂され、その使用が礼拝統一法により義務付けられた。祈祷書ではツヴィングリ的な聖餐論が採用され、ミサなどの儀式に関わるものは削除され、司祭の式服は白に限定された。プロテスタント的な信仰箇条「42条」や「説教集」も作成され、改革の神学的基礎づけのため、ブツァーがケンブリッジ大学に招かれた。
 
カトリックの復興
 しかしこれらの改革はメアリ1世(在位1553~1558)により中止された。キャサリンの娘で皇帝カール5世の従姉妹でもあったメアリはカトリックへの志向を示し、一連の施策によりカトリック的な制度を復活させた。すなわち教皇の権威の回復を決定し、プロテスタント的な教会法令を廃止した。またミサを復活させて、使用言語を、英語からラテン語に戻し、妻帯聖職者の職務を剥奪した。同時にプロテスタントへの厳しい弾圧を行い、クランマーをはじめとする改革支持者を処刑した。これにより多くのプロテスタントが大陸へと流れ、ジュネーヴチューリヒストラスブールなどへ亡命した。彼らは亡命先(多くはジュネーヴ)で本場の改革を学び、後に帰国してピューリタン運動の指導者となる。
 
イングランド国教会の確立
 このような不安定なイングランドの教会の在り方を定め、国教会として確立したのがエリザベス1世(1558~1603)である。ヘンリーの二人目の王妃アン・ブーリンの娘であるエリザベスは、彼女の母と彼女の出生とがローマから否認されたため、親プロテスタントの姿勢を示した。しかし、国内のカトリックプロテスタント双方を満足させるために「宗教解決」を行い、両方の要素を取り入れた教会を形成した。すなわち、あらためて「国王至上法」を定め、教皇の権威を否定し、教皇への上納金と上訴を禁止した。また礼拝統一法により祈祷書に基づいた礼拝の復活を定め、礼拝様式はカトリック、教義はプロテスタントとした。「39箇条」(1663)では聖書の優位性、信仰義認、キリストの犠牲の一回性が確認され、教皇至上権、煉獄、贖宥、聖遺物礼拝、諸聖人の執り成しを否定した。一方、ヒエラルキー的な主教制を採用し、歴史的継承の維持を明示した。それに関連して聖職式服規定を設け、また聖職者の結婚は認めず、妻帯者は許可を要するとした。これらの政策は高等宗務官制度により保障され、違反者の取り締まりが行われた。
 エリザベスの宗教解決は、カトリックプロテスタント双方から激しい抵抗をうけた。カトリックの高位聖職者たちは女王への宣誓を拒否して職務を剥奪された。その後、教皇やスペインの支援の下にメアリ・スチュアートを擁立し、エリザベスを暗殺しようとするが阻止され、これ以後、カトリックに対する厳しい取り締まりが始まる。一方、プロテスタントの抵抗はピューリタン運動として展開した。
 
(2)ピューリタン運動
①徹底的改革の要求
 エリザベスの時代になるとメアリ時代に大陸に亡命していた人々が帰国し、徹底的な改革を求めるようになった。この運動は特に1560年代に顕著となり、ジュネーヴの影響を受けて展開した。最初に彼らが求めたのは聖書に基づいた改革であり、非聖書的な伝統的慣習を排除し、なかでも霊的階級を表す聖職者の式服を廃止しようとした。しかし彼らの改革案は国教会からは認められず、改革者らは自ら礼拝を簡素化し、独自の式服の着用をはじめた。これに対してエリザベスは全説教者に認可を受けるように要求し、論争的説教を禁止し、規定通りの式服の着用を求めた。これによりピューリタン聖職者の多くはその地位を失った。
 
②長老制の導入
 70年代になると、ケンブリッジ大学教授カートライトを中心に主教制に代わる長老制の導入が要求され、会衆による教職者の招聘、教職者の同格化が求められた。彼らは国教会の中でこれを実践して長老会を形成し、「教会規律宣言」を起草し、聖書釈義集会を開いた。ピューリタンの多くは国教会の中に長老制と教会規律を導入し、同時に主教も(同格性を維持しつつ)存続させることを考えていた(非分離派)。それによって召された者のみからなる教会を建設しようという分離派が現れた。彼らは国教会の外で自分たちの礼拝を持ち、自ら教職を選んだが、やがて逮捕され、投獄された。その指導者ロバート・ブラウンは弾圧の中、彼の会衆と共にオランダへ逃れるが、教会が混乱したために帰国し、国教会の聖職者となった。その後、より急進的な分離主義が現れ、その活動は広がった。
 その後、ピューリタン運動への弾圧はさらに厳しくなり「宗教条項」により祈祷書の使用と式服規定の遵守が課せられ、私的な宗教集会は禁止された。さらに高等宗務官裁判所が設置され、分離派の指導者は処刑された。女王の首位権の拒否者、国教会出席拒否者、秘密集会出席者は国外追放とされ、分離主義者の多くはアムステルダムへと亡命した。
 
③主教制の強化とアメリカへの移住
 エリザベスに続くジェームズ1世(在位1603~1625)は長老主義を導入したスコットランドの王でもあったため、ピューリタンたちは期待して「千人請願」を提出し、さらなる教会改革を求めた。しかしジェームズは王権神授説を唱え、「主教なければ国王なし」と宣言して、それを拒否した。もっとも聖書の新しい訳の要求は受け入れ、欽定訳聖書が制定された。しかしピューリタンに対しては「遊び宣言」を発布して厳しい弾圧をはじめた。オランダの分離派もジェームズに期待して文書を送るが、この政策に帰国の望みを絶たれ、北米に移住した。「メイフラワー号」でニューイングランドへ移住したピルグリム・ファーザーズもその一つである。
 宗教的統一の政策は次のチャールズ1世(在位1625~1649)の時代にさらに促進された。彼は政治領域でも王権神授説に基づく国王の大権を主張し、議会を経ずに課税や貸付の強要を行った。議会は「権利の請願」を提出し、人権の尊重と議会制民主主義の確立を求めるが、チャールズは議会を解散し、専制政治を進めた。ピューリタンの多くは、宗教的、政治的に絶望し、ニューイングランドへ移住した。
 
ピューリタン革命:長老主義国教会の成立
 国内ではチャールズがスコットランド教会に主教制を導入しようとして主教戦争が生起し、これを機に国王と議会の対立が激化する。議会は上院から主教を排除することを決定し、革命へと至る。議員オリヴァー・クロムウェルピューリタン農民から成る鉄騎隊を率いて議会軍の中心で戦い、議会を勝利へと導いた。その結果、高等宗務官裁判所が廃止され、主教制が廃止され、大主教ロードは処刑された。議会は教会改革のためにウェストミンスター会議を招集して祈祷書による礼拝を廃止し、カトリック的な要素を排除して、長老主義的な教会の在り方を定めた。さらに「ウェストミンスター信仰告白」(1646)を作成し、カルヴィニズムに基づいた教理と長老制を定めた。
 ところが、革命のさなかに議会内では国王の処遇をめぐって、長老派、独立派、平等派の間に対立が起こる。国王との妥協を求める長老派は独立派を中心とする議会軍によって追放され(1648)、翌年には国王が処刑され、専制政治が廃止された。一方、民主主義を主張する平等派や共産制を目指したディッガーズも退けられて共和制が樹立され、クロムウェルが首相となる。やがて彼は議会を解散して護国卿となり、独裁政治を行った。ここにおいて、聖者による支配を実現しようとした第五王国派も排除された。クロムウェル自身は独立派で各個教会主義の志向を持ち、宗教的寛容を唱えたため、国教会の中に長老派、独立派、バプテスト派が存在することになった。
 その後、クロムウェルの死を経て王政復古し、主教制が回復された。そして礼拝統一法により改訂祈祷書以外の礼拝式文が禁じられ、また聖職者には誓約が求められて違反者には刑が科せられた。さらに「秘密集会禁止法」により、国教会以外の礼拝への出席は違法とされた。これにより国教会と非国教会の境界が明確となり、その後は徐々に寛容政策が進められていった(寛容宣言1672、1687)。各名誉革命下での「寛容令」(1689)では、一定の条件の下で(統治者への臣従の誓約、教皇権やカトリック的教理の否定、「39箇条」の肯定)礼拝の自由が認められた。これにより、非国教徒の礼拝が可能となり、長老派、会衆派、バプテスト派は自由教会として存在することになった。この時点でカトリックには礼拝の自由は与えられず、それにはなお100年を要した。
 
(3)諸教派の形成
 このようなピューリタン運動の進展の中で、多様な教派が形成されていった。その多くはカルヴァンの影響を受け、それをイングランドの状況下で展開させて独自の神学や教会制度を生み出した。
 
①長老派
 ジュネーブの教職制にならい、長老制を導入しようとした人々により、その基礎が築かれた。初期のピューリタン運動で中心的な役割を担い、革命期にウェストミンスター会議で長老主義の導入を実現した。国教会制度の維持を基本として、国王の権力や主教の監督権を要求したため、革命期には独立派(会衆主義)と対立し、議会から追放された。王政復古以後は影響力を失い、国教会外の教派となる。「ウェストミンスター信仰告白」は今日に至るまで各国の長老主義の基本的な信仰基準となっている。
 
②会衆派
 会衆主義の主張はピューリタン運動初期に現れた。その指導者ロバート・ブラウンは、教会とは神に召し出され、自覚的意思により集まった信仰者よりなるとし、教会的、政治的権威からの独立を主張した。実際、国教会の外に信仰共同体を設立したが、エリザベスの弾圧により多くはオランダへ逃れた。一方、国教会を会衆主義にしようとする非分離派も現れた。
 オランダやイングランドの会衆主義者は17世紀に北米へ移住し、ニューイングランドに教会を建設した。マサチューセッツでは公定教会制を採り、信仰の自由を認めない社会を形成した。国内ではクロムウェルのもとで一時は国教会が会衆主義になったが、その後の王政復古により非国教会となる。
 会衆派の特徴は教会論にあり、上述の教会理解から各個教会の自主独立を唱え、聖書に基づき各教会は独自の教会形成を行うものとし、拘束力のある教理(信仰告白)を否定する。しかし信仰宣言は認め、革命期には「サボイ宣言」(1658)を作成した。その内容は、教会論以外は「ウェストミンスター信仰告白」をほぼそのまま採用したものである。
 
③バプテスト派
 17世紀のはじめに分離派から生まれ、国家からの独立を徹底して主張したのがバプテスト派である。弾圧を逃れてアムステルダムへ亡命したスマイス・ヘルヴィスにより、最初のバプテスト派教会が作られた(1609頃)。スマイスは新約聖書に基づき、悔い改めと信仰告白を経て洗礼(バプテスマ)が授けられるべきであるとし、そのような洗礼を受けた者のみにより教会が形成されることを主張し、幼児洗礼を否定した。初期バプテストは全人類の救いを主張するアルミニウス的理解を取るが(ジェネラル・バプテスト)、1630年代後半に成立したバプテスト派はカルヴィニズムの予定論に基づき、選ばれた者のみの救いを主張した(パティキュラー・バプテスト)。イングランドでは後者が拡大し、革命時に勢力を持った。
 バプテスト派の特徴は、個人の自覚的な信仰告白を重視する洗礼論と教会論にあるが、ここからさらに各個教会の自律の原則を展開し、聖書に基づく自由で民主的な教会形成の在り方を主張した。また新約聖書にならい、浸礼を行う。「第二ロンドン信仰告白」(1677)は、教会論以外は「ウェストミンスター信仰告白」を採用している。しかしその非妥協的な態度のため厳しい迫害を受け、バプテスト派はアメリカで大きく発展する。ロジャー・ウィリアムズは会衆主義の公定教会制に反対し、植民地ロードアイランドで国家と教会を分離し、信仰の自由が保障される社会を形成した。
 
④クエーカー
 前述のようにピューリタン革命の混乱期にさまざまな分派が現れたが、その中で大きな広がりを見せたのが、クエーカー派である。
 指導者ジョージ・フォックスは人間の内なる光に神の直接的啓示を見、個人における霊的経験を重視した(「クエーカー」は神の言葉に震えることから付けられた俗称である)。ここから形式的な制度を不要とし、教職者や教会組織、聖礼典や信仰告白を否定し、沈黙の礼拝をもつことを特徴とする。また聖書に特別な権威を認めず、愛の実践や平和主義を主張し、戦争の否定や兵役拒否の思想を展開した。その主張のゆえに厳しい迫害を経験したが、ウィリアム・ベンによるアメリカのペンシルバニア開拓により、急速に拡大した。