昨晩NHK BSで、「死刑執行人サンソン」について知ることができました。
彼は死刑執行人として正しいことをしていると思いたかったのに、処刑場に次々と受刑者を送り込んでくる時代の権力に翻弄されます。
フランス革命の中で自分が仕えてきたルイ16世を自らの手で処刑し、その後、革命による民主化を目指す指導者たちが変わるごとに正義も変わる。それに従っていれば、それで正しいのか。
その姿を見て、現代の私も似ているなあと感じました。
確かにそのときの法を守っているという点においては正しい。しかし、その法をつくり支配する権力が間違っていれば、たとえ共和制であっても悪なのです。要は君主制だからダメとか共和制だから正しいのではない。
そして、その権力を熱狂的に支持する民衆の怖さがあります。その民衆の一人に自分もなってしまう恐ろしさ。あの十字軍でもしかり、ナチスのヒトラーの独裁でもしかり、日本の軍国化もしかりです。
その大勢に巻かれて安堵しているところがある。悪が野放しになっていても、大勢がそれに賛成している、または目をつぶっていればそれが正義となってしまう。
要は、法、制度ももちろん大切ですが、さらに大切なのは、それをつくり運用する「人」であり、その力を委ねられた「人」がどうかです。
死刑執行人サンソンの葛藤は現代を生きる私たちにとっても他人事ではありません。このコロナ問題、オリンピック、政治疑惑…。
様々な出来事の大きなうねりの中で保身することに安堵していないか。
聖書にバプテスマのヨハネという人が登場します。彼は国主ヘロデの不倫を指摘して投獄され、挙げ句の果てには遊興の玩具のように首をはねられて命を落とします。
彼はたった一人でも、時の権力者にはっきりと意見しました。しかし、いのちが奪われるときに抵抗したという記録はありません。
キリストもそうでした。総督ピラトの裁判は、民衆の声の圧力に屈した審判となり、罪のない人に酷い死を要求したのです。キリストはその審判に抵抗せず、剣をとる弟子をたしなめ、従いました。
しかし、それはただ悪を見過ごしていたのではありません。弟子のペテロはそのキリストの姿をこう書き記しています。
"キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。"
ペテロの手紙 第一 2章22~23節
天の父なる神様に、その判断を任せ、ご自分はそこに身も魂も委ねられたのです。
今一度、あらためて真の審判者であり支配者である生ける神様に、まず祈りたいと思います。
"御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。"
マタイの福音書 6章10節