のりさんのブログ

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御子を遣わされた神の愛

"神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。

それによって神の愛が私たちに示されたのです。

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。

ここに愛があるのです。"

ヨハネの手紙 第一 4章9~10節


クリスマスは神が御子を遣わされたことを思い起こす日。

 

御子は受肉されイエスと呼ばれた。それはモーセの後継者となったヨシュアと同じ名前。モーセイスラエルの民を約束の地まで導く養育係でヨシュアが約束の地に連れ上ったように、旧約の律法は救いまでの養育係となり、その律法によって罪の悔い改めが起こり、御子を信じることによって御国に入ることができるという救いをもたらしたのである。

 

神の御使いは、このヨシュアすなわちイエスを「この方こそ主キリストです」と紹介した。

それはイエスこそヤハウェである救世主という、その唯一性の証である。世に多くの救いと呼ばれるものがあり、救世主と呼ばれる人も大勢いる。しかし、イエスだけが真のメシア(キリスト)なのである。

 

しかし、彼を受け入れる宿も客間もなく、飼葉桶が彼が置かれた場所。もうそこからキリストとしての受難の道が始まっていた。

エスは彼の教えを宣べ伝えつつ十字架への道を歩んだ。その肩には既に目に見えない十字架、つまり全人類の罪を贖うという重荷が負わされていた。

 

私たちは、この十字架の道を歩まれるために来られた主イエスのことを喜ぶのは、信じる者にとって、人生の闇ではなく神の光、その永遠のいのちを持つことができるからである。だからクリスマスは喜びの訪れを感謝する嬉しい日だ。

 

しかし、それは同時に御子の受難が始まった日であり、神の怒りが御子に下されることが明らかにされた日でもある。

 

そこに愛があると聖書は言う。

神は実にその独り子をお与えになったほど世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠のいのちを持つためである。

 

この滅びをまず御子が身代わりに受けてくださった。それが神の愛の証明であり、罪を徹底的に嫌う神の聖性の証である。

 

あらためて、この御子の訪れの意味を考えよう。神がどれほど私たちを愛しておられるか。どれほど滅びることを悲しんでおられるか。

 

だからこそ与えてくださった御子。そこにどれほどの父なる神の痛みがあるか。そのことも覚えていきたい。

クリスマス。キリストのミサ。キリストの祭り。