のりさんのブログ

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「旧約聖書の学び」詩篇(15) 

◎主のことば、人のことば  

詩篇12篇1節~8節         
 
序論

 6篇と同じように、この詩篇でも「第八の調べ(八弦の立琴・第八調)シェミニト」で伴奏するように指示している。これは、オクターブ低い音の出る楽器を指していると言われている。この詩篇の主題は「ことば」であり、力ある者が自分の舌先を、力を振るう道具として使う時、貧しい者に代表される力のない者は苦しむ。しかし、主のことばはそうではない。
 
 
1.人のことばについての訴える祈り(1~4節)
①「主よ お救いください」とダビデは祈っていますが、何からの救いを願っているのでしょう。
 それは、「むなしいこと」、「へつらいの唇」、「二心」、「傲慢の舌」とある人のことばからの救いであり、それを話す人からの救いである。そして、その救いとは、2節、3節で言われていることを語る者の言葉が絶たれるようにということと、神に信頼する者が悪しき者に負けないで、神のことばを語り続けることができるようにということである。当時は聖書が未完成であるので、神のことばは、主に預言者であり、特別に主の霊を受けた者によって知ることができた。
 
②人のことばにある問題点と、その影響について考えてみましょう。参照:箴言15:4、26:28、ローマ16:17~18、エペソ4:29、マタイ12:36、コロサイ3:8、ヤコブ3:1~10
 互いにむなしいことを話す➡「むなしい=嘘、虚偽、空虚、見栄」徳を建て上げず益にならない無駄口。へつらいの唇➡滑らかな調子のよいことば。言葉遣いというテクニックだけで心が伴っていない。二心➡直訳は「心と心で話す」心にもないことを話すこと。
 3節でダビデは「へつらいの唇」と「傲慢の舌」を結び付けている。結局は自分のことしか念頭にない者が自分の力を誇り、更に権力を伸ばそうとして「ことば」を巧みに用いていることを指摘している。それらから来る影響として、敬虔な人、誠実な人がいなくなっていくとダビデは嘆いている。穏やかな、親切な心で励まし合いたいものである。
 
2.神のことばの純粋さと確信(5~8節)
①5節は、1節の祈りに対する神様の答えをダビデが告白しています。主が立ち上がる理由は何ですか。5、参照:出2:24、3:7
「苦しむ人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから…」主はかつてイスラエルの民がエジプトでうめき苦しんでいた時、その嘆きの声を聞いてくださった。そのように、主は、悪しき者のことばによって圧迫を受けて苦しんでいる者のために、その嘆きを聞いて立ち上がってくださる方であり、救いに入れてくださるお方である。
 
ダビデは、主のことばに対して、どのように確信していますか。6~7
 主のことばは混じり気のないことば➡つまり、同時に、人のことばは、多くの汚れが混じり合い、澱んでいるものであるということを言っている。人のことばは、苦しむ人が踏みにじられ、貧しい人が嘆き、敬虔な人、誠実な人が消え去っていくが、主のことばは、混じりけなく純粋であり、「彼ら」を守られ、とこしえまでも保たれると確信している。7節の「彼ら」は、新共同訳では
「わたしたち」、口語訳では「われら」となっている。それは70人訳においてそのように訳されているからである。
 
③8節のことばは、どういう意味ですか。詩篇12篇の文脈で、どのように理解しますか。
 「人の子の間で」と、最後にこの世の現実に視点が戻っている。おそらく、以上の事柄を踏まえ
て、主のことばに期待し、信じ続けることの大切さを言いたいのだと推察できる。つまり、7節が結
論ということ。新共同訳では「このとき」を付加して、7節がこの詩篇の結論として分かりやすいよ
うに意訳されている。