のりさんのブログ

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古き良き歴史…

古き良き歴史という言葉を聞くと、過去の栄光にしがみつく保守的なイメージを持つ。確かに昔は良かったのかも知れない。でも、そのとき、なぜ良かったのかを考えないと、その当時のかたちや、やり方だけを大切にしてしまい、実は本当に受け継ぐべき本質を見失う。

 

各教会にも、各教派にも歴史があり伝統はある。意外と聖書、聖書と言いながら、聖書からかけ離れたことを大切にしているものである。

 

だから、そのことをどれだけ自覚して、その余分なものを減らしつつ、増やしていかないかが、これからの課題になるだろう。

 

そうすると、新しいことを始めるというきっかけを失ってしまうのである。変わることを恐れてしまい、いつまで経っても過去の栄光という亡霊によって支配される教会となる。

 

かつて日本は太平洋戦争に向かってしまったことがある。そのとき、特にアメリカからの経済制裁等があって、日本国内は鉄や石油などが入らなくなり、経済がかなり落ち込んだ。

 

だから国民を煽ってアメリカを敵視し、国民感情として戦争を始めることが正義であるように進んで行った。そこで、国民の目を盲目にしたのが過去の栄光であった。日本は鎌倉時代にあった元寇以来、外国からの攻撃に負けたことがなかった。

 

明治になってからも日清、日露両戦争においても勝利をおさめ、日本は欧米列強に肩を並べるほどになったと自負するようになっていった。

 

第一次大戦では連合国側につき、国民も日本の軍隊について、特に何も疑問も持たず、その成長ぶりに、むしろ好意的であった。

 

しかし、その過去の栄光が最後まで国民を苦しめることになった。神風が吹くとはよく言ったものである。負け知らずほど、自分を過信している。そこには、神への期待や信頼はない。過去の栄光という亡霊、古き良き歴史というカンフル剤が現実逃避させるのである。

 

これは、一般の世界の話ではあるが、キリスト教会もよくよく注意をしていないと、古き良き歴史という亡霊に仕え、過去の栄光というカンフル剤に依存した病的教会となるのである。

 

それはすなわち偶像崇拝である。聖書のみことばではなく、そのような人間が作り上げた占い如き慣習に頼るならば、教会は死ぬ。

 

聖書は古き本なれど、そのみことばに従う時、常に新しく造り変えられることができる。御霊が変えてくださるのである。その御霊の働きこそ教会にとって従うべきものである。

 

その目が開かれなければ、教会は教会でなくなり、キリスト教会という看板をつけた自己満足の集団と化してしまうのでる。

 

古き良き歴史…

良い言葉かも知れないが、もっと大切にすべき言葉がある。いや、比較にならない、絶対的に従うべき言葉がある。それが神のことばである聖書である。それを抜きにして、古きも良きもない。