のりさんのブログ

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緊急入院一日目(2023.5.4)

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この大型連休中は、基本的に祝日は休みなのだが、その通り休むと日曜日の礼拝説教ができなくなる。

 

やはり準備は大切。そんなことで、今日の午前中は説教の備えに時間を費やし、一通りの目処を立てて終えた。

 

思ったよりも早く終わったので、どこかへ出かけられるかと思い、妻がいる自宅へ帰る。教会のすぐ裏なので歩いて行く。

 

そして、自宅の外階段に差し掛かった時だった。急に右半身に力が入らなくなり、歩くのが難しくなったのだ。こんな現象はこれまでなったことがないので、驚きつつ、何とか家に入ることができた。

 

私の脳裏には「脳梗塞」の文字が浮かんだ。血管が詰まって循環が滞り不具合が起きている。そう感じたので、私は常備してあったOS-1を一口飲み、身体を横にした。

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それで暫く黙っていれば治るかも知れない。そうすれば、病院へ行くのも今日でなくて、連休明けでも大丈夫だろう。そう思った。

 

しかし、そんなに簡単ではない。何度か立って歩いてみたが、右半身に力が入らないのは変わらない。動かそうと思えば動かせるのだが、まともな左側とは全く違う感覚がするのだ。

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これはまずいと再び思い、やはり今日中に病院へ行くべきと悟り、今度は休日当番医を調べた。そして、電話をかけてみる。すると女性の声で、どんな症状ですか、とぶっきらぼうな電話応対。

 

それでも何とか力を振り絞って伝えるも、脳神経外科の先生は休みとのこと。しかたない。今度は札幌市の休日医療サポートへ電話。そこで、ようやく優しい女性の声で、症状を聞かれる。

 

私は一連のことを伝える。すると、その電話口の女性、それならば救急車を呼んであげましょうか?と言う。

 

私は救急車を呼ぶならば、その前に妻と打ち合わせが必要だ。部屋の中も少し片付けたい。そんな心配をしつつ、結局は自分で119番へ電話する。

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そんなこんなで、はこばれたのは札幌ドーム側にある、柏葉脳神経外科病院。救急車に乗るのは初めてだったが、当然、救急患者として病院へ担ぎ込まれるのも初めてである。

 

救急のストレッチャーから病院のストレッチャーへ移され、そういうところで、つい出てしまう言葉は、「大丈夫です」

具合が悪いから119番を呼んだのに、「大丈夫です」は禁句だ。

 

もっと甘えて良いのだ。しかし、甘え慣れていない私には、自分で歩けますとか、立てますとか、つい人の手を借りずとも生きていけることをアピールしたいのだ。

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一連の検査が終わり、脳梗塞は認められなかった。しかし、症状が出た以上、何らかの不具合が身体に生じているのは確かなのだ。それだけに、医師は入院を勧める。

 

私の脳裏には、礼拝をどうしようか。教会の活動をどうしようか。神学校の働きをどうしようか、と心配ごとがよぎった。

 

でも、このことは神様が許されてなっていること。そう思うならば、むしろ、しっかり休んで治してもらうべきではないか。そう自分自身に結論づいた。

 

そういうことで、生まれて2回目の入院が始まった。しかも、期限は不明である。それはゆっくりせよという神様からのメッセージなのか。

 

今はただ、そう受け取る以外にない。その後、どうなっていくのか、神様の御手がどのように動くのか、それを見極めたい。

 

久しぶりの病院のご飯をいただき、トイレも何をするにも看護師をナースコールで呼ばねばならないと看護師に言われ、それもまた、自分でできそうなことなのに、自分よりも若い人を呼んでおしっこに行きたいとは、非常に言いづらい。

 

おしっこは、おとなならば、みんな自分だけの心の中で行こうと思い、自分でトイレに行き、自分のタイミングで終えて出てくるはずである。

 

しかし、それら全てが人の手を煩わすと思うと、ナースコールを押すことを躊躇してしまうのだ。

 

それで、我慢してギリギリのところでようやくナースコール。やはり、気を使う自分。依存することができない自分。委ねきれない自分に、そのまま信仰者の自分の姿も垣間見た。

 

信仰とは神に委ね、依存し切ることである。どんなときもナースコールを押し続けることである。しかし、自分はできるなどと思い上がっているならば、いつまでも主へのナースコールは押せないのだ。

 

今日、久しぶりに入院することになり、そんなことを思い巡らしていた私である。