のりさんのブログ

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1-2.ルターの宗教改革による神学的展開


 ルターの神学は、ローマ教会や、多様な支持勢力との議論を通じて、さらに展開していった。
 
(1)聖書の権威
 ローマ教会にて元来、聖書は教理の源泉とされていた。しかし中世末期においては「伝承(=伝統的神学、教義)」が聖書と並ぶ啓示の源泉とされ、聖書の解釈は教皇の決定権に委ねられていた。ルターはローマとの論争でこの教皇の権威と対立する中、自らは「聖書の権威において」発言することを明確にし、教皇公会議も聖書の権威に従属すると主張した。教会の権威を聖書に求めるこの姿勢は、やがて「聖書のみ」「聖書主義」というプロテスタント教会の原則となっていく。
 
(2)聖職者の独身制、修道院制、結婚
 聖職者の独身制については第2ラテラノ公会議(1139)で定められたが、ルターはこれを人間の伝承に基づくものとして退け、結婚は各人の決断に委ねられるべきとした(「ドイツのキリスト者貴族」1520)。これにより多くの修道士や修道女は修道院を離れて、結婚した(「修道院大脱出」1521)。
 同様に修道誓願を立て修道士になることは功績とはならず、修道生活は特別な聖なる道ではなく、この世の職業と同じ召命に基づくとルターは理解した(「修道誓願について」1521)。もっともルターは修道院制そのものを否定する意図はなく、その教育的、社会的機能を評価していた。ルター自身20年間修道士であり、それをやめる決断は容易にはなしえなかったが、1524年に「心痛めて」修道服を脱ぎ、翌年に元修道女のカタリーナ・フォン・ボラと結婚した。のちにルターは結婚について、最も愛すべき神の賜物だと語っている。最終的にルターは、修道院生活を非キリスト教的なものと否定した。その理由は、修道士たちがキリストにではなく、自分の功績に頼っていると判断したからである。
 
(3)教会:全信徒祭司論、信仰者の共同体、礼拝改革
 ルターは全信徒祭司論により、キリスト者は信仰により同じ霊性をもつとし、ここからローマ教会の聖職主義者、ヒエラルキー制度を否定した。すなわち聖職者に特別な霊性を認め、人々に恵みを仲介する存在として、サクラメントの執行、司祭叙階、教理の決定、罪の赦しの宣言の権限をもつとする理解を退けたのである。
 この全信徒祭司論に基づき、新しい教会論が展開された。すなわち教会は、信仰者の共同体であり、会衆が教理を判定し、教師を招く権限をもつという会衆中心の教会論である(「キリスト者の集まり」1523)。この教会論に基づき、ルターは礼拝改革を行った。礼拝では聖書の言葉を通じて、罪人に神の恵みを告知することに重きが置かれ、その結果、説教に大きな役割が与えられることになった。また会衆の理解のために言葉はラテン語からドイツ語に変えられ、ドイツ語聖書が用いられた。会衆の賛美のためにドイツ語の「讃美歌集」が出版され、ルターも「神はわが砦」など、作詞作曲を手掛けた。このように、礼拝は犠牲を捧げる場ではなく、会衆が恵みを受ける場へと変えられたのである。さらに信徒や教職者の教育のために大小の教理問答がつくられ、また教会財政や困窮者の援助のために共同金庫が設けられ、会衆による教会維持の体制が整えられた。もっともルターは急進派との対立の中で、また教会制度の確立のために、次第に秩序の必要を主張し、全信徒祭司論や会衆中心の教会論は後退していく。
 
(4)見える教会の限界と教職制度
 「見える外的教会」は「真の霊的教会」と区別されるべきことをルターは唱えた。なぜならば、見える教会には現実として義人と罪人が含まれ、義人もなお罪人でもあるから、霊的教会はそのまま現実の教会に実現され得ないのである。しかし「見える教会」の中にキリストへの信仰があることによって、「霊的教会」はそこに実現されると理解した。
 ここから「見える教会」の存続には教会秩序が必要であり、教職制を含む教会制度が不可欠であるとルターは考えた。すなわち、牧師職を立て、説教と聖礼典の執行を通して神の言葉を宣教し、救いの約束を告知することが求められた。ルターは全信徒祭司論を唱えたが「職務」として宣教するのが牧師であり、そのため「内的召命」に加え、教会の「選任と招聘」を必要とするとした。「按手」はローマ教会の叙階のように受階者に特別な霊性を与えるものではなく、教会の職務への派遣と祝福の意味をもつとされた。牧師職は特別に崇高な存在ではなく、神の言葉に従属する福音告知の「仕え人」であると説いたのである。
 
(5)律法の意義
 ルターのヴァルトブルク滞在中にヴィッテンべルクの改革を主導したカールシュタットは、聖霊の働きを受けて律法の行為が成就されると説き、偶像禁止規定に基づき聖像を撤去することを義務として市の規制に定めた。これにより町に聖像破壊の混乱が引き起こされ(ヴィッテンベルク騒動、1522)、事態の収拾にルターは選帝侯より呼び戻された。ルターは、禁止されているのは聖像そのものではなく、崇拝することであるとし、律法の字義的解釈はキリスト教的自由を侵すとして、これを退けた。
 一方、反律法主義者アグリコラは、「律法」はキリストにより成就され、救いの道として意味がないと主張した。ルターはこれに対して、律法は義認へは導かないが、なお意味をもつとし、①罪を示し、②キリスト者の生活の指針を示し、③政治的統治の指針を示す機能を指摘した。これは後にメランヒトンにより「律法の三用法」とされ、ルター派神学の基礎となる。