のりさんのブログ

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4.イエズス会の日本宣教方策


(1)初代布教長トルレスの方策
 ザビエルの指名で1551年に日本のイエズス会初代布教長になったのが、コスメ・デ・トルレスCosme de Torres(1510~1570)である。トルレスはザビエルとともに1549年に来日し、ザビエルの離日後は20年間も日本宣教の責任を負った。
 
 トルレスの布教方策はザビエルの指針に基づいていた。
 ①日本と日本人に対する適応主義の実践
 ②封建領主から宣教の許可を入手し家臣と領民に対する自由な宣教を確保すること
 ③ポルトガル商船の日本来航を宣教活動に積極的に利用すること
 ④機会をとらえて京都での宣教に着手すること
 
 トルレスが責任を負った20年間に、日本の政治状況はめまぐるしく変化した。宣教活動も多くの挫折や痛手を経験した。決して順調ではなかった。それでも九州の各地と山口、京都とその周辺に約40の教会を建てた。
 
 トルレスの指名によって京都の布教に立ったのがガスパル・ヴィレラGaspar Vilela(1525~1572)である。ヴィレラは1556年に来日し1年間日本語と日本について学んだあと、九州で、1559年から1566年まで京都とその周辺で宣教活動に従事した。
 ヴィレラの京都での宣教活動は困難に満ちていた。当初、京都では宿舎さえ容易に確保できず、ようやく確保した借家で布教を始めても、耳を傾ける者は一人もいなかった。しかし初めての転機は1560年に将軍足利義輝から布教許可を得たことである。そこから少数ながら、彼の話に耳を傾け洗礼を受ける者が現れるようになる。ただし、その頃には反対者たちに京都を追われることもしばしばだった。1563年に結城ゆうき忠ただ正まさ(生没年不詳)、清原枝しげ賢かた(1520~1590)・高山飛騨守(生年不詳~1595)に授洗したことは、この地域での宣教活動に良い影響を与えた。その後、織田信長の保護もあって、京都近辺でキリスト教は大きな成長を見せた。
 
(2)第二代布教長カブラルの宣教方策
 1570年に来日し、イエズス会第二代日本布教長になったのがフランシスコ・カブラルFrancisco Cabral(1529~1609)である。カブラルは来日して1か月後に宣教師会議を開き、次の2項目を徹底させた。
 
①日本のイエズス会員が日本の伝統・習慣を尊重して使用していた絹の着物の着用を禁止。
②日本のイエズス会が日本・マカオ間の貿易に参加して収益を上げていた商取引を禁止する。
 
 宣教会議で伝達されたこの2項目は、ザビエルからトルレスに継承された宣教方策と異なっている。来日間もないカブラルは何故、トルレスが20年間も重んじてきた宣教方策を転換したのか。
 
①海老沢有道の見解
 ヴァリニアーノはカブラルの採った誤った態度を七つ指摘しているが、それによると、日本人は自尊心が強いから厳しく取り扱うべきで、西欧人よりもはるかに低級な人間であると思わせるような高圧的な態度に出て、日本人イルマンにも衣服、食事、睡眠に至るまで差別待遇をし、自らは洋式生活を営み、日本の風習・習俗は一切取り入れようとも、学ぼうともせず、かえってそれを嘲笑した。また日本人イルマンにはラテン語ポルトガル語も教えようともしない。それは彼らに秘密が知られぬためであり、日本人に学問を与え司祭にすることは絶対に反対であった。自らも日本語を覚えようともせず、他の宣教師たちにも、巡察師ヴァリニアーノの指示にもかかわらず、学習するよう配慮もしなかった。
 
②五野井隆史の見解
 ポルトガル人カブラルは、ポルトガル国王の年金によって維持されてきた日本の布教事業は、ポルトガルとインド両管区の強い指導下に置かれて、ポルトガル風の保守的で厳格な、しかもヨーロッパ人宣教師中心の植民地主義的方針が採用されるべきであると考えていたのであろう。
 
 カブラルは日本人を信用しないで植民地主義的な宣教方策を採用したが、それでは順調にいくはずもない。カブラルは日本で大分に住んだので、彼の方策は九州地方に強く影響し、そこでカブラルと九州各地の日本人キリシタンの間に多くの軋轢あつれきが生じた。
 九州の宣教が教会内部の問題を抱えていた時期に、京都周辺の宣教は着実に進展していた。そこにフロイス(1532~1597)の後任として、1574年から京都周辺の布教を担当したのがオルガンティノ(1533~1609)である。オルガンティノはザビエル以来の布教方策を尊重し、日本を理解し、日本に適応した宣教を行った。織田信長の庇護もあって、京都に南蛮寺を建て、安土にセミナリオを開設した。
 
(3)巡察司ヴァリニアーノの布教方策
 停滞した日本のキリスト教界を改革したのは、ヴァリニアーノAlessandro Valignano / Valignani(1539~1606)である。広大なイエズス会のゴア管区の巡察師として、ヴァリニアーノが来日したのは1579年であった。
 ヴァリニアーノはまず、日本における布教の現状を調査し検討した。その後、1580年に日本布教の方策を示した「日本布教長のための規程」と「セミナリオ指導規程」の草案を発表した。さらにこれらを検討するために教会会議を開催して、日本での布教方策を確定した。その過程で見解の相違からカブラルは日本布教長を辞任している。1581年に日本の初代準管区長として任命されたのはコエリヨ(1530~1590)であった。
 海老沢有道は、一連の教会会議で決定された重要事項を次の通りまとめている。
 
①ゴア管区から日本を準管区として分離する件
②長崎・茂木の寄進受理の件
③日本準管区を下(肥筑)、豊後(豊前・豊後・防長)・都(関西)の三布教区とする件
④各布教区にセミナリオを設置する件
⑤邦人聖職者養成の件
⑥邦人をイエズス会に入会せしむる件
⑦在日イエズス会士の絹衣着用の件
⑧同宿らの処遇の件
⑨日本イエズス会年報の件
 
 ヴァリニアーノはカブラルの方策を変更し、日本を尊重した適応主義を基調に方策を打ち出した。セミナリオの設置・邦人聖職者の養成・邦人のイエズス会入会は、適応主義の具体化である。この方策は停滞していた日本のキリスト教界を活性化した。
 一連の改革を終え布教方策を確立したヴァリニアーノは、1582年に天正遣欧少年使節を伴って離日した。少年使節とは、伊藤マンショ(1569頃~1612)、千々石ミゲル(1569頃~没年不詳)、中浦ジュリアン(1569頃~1633)、原マルチノ(1569頃~1629)の4名である。
 ヴァリニアーノは、その後2度日本を訪問している。2度目は豊臣秀吉が1588年に公布したバテレン追放令に対応するためであった。1590年にインド副王使節として再来日したヴァリニアーノは、1591年に豊臣秀吉に謁見している。その後、禁教下でのキリスト教界維持のための方策を指示して、1592年に離日した。3度目は日本巡察師として来日した1598年である。それは豊臣秀吉の死から関ヶ原の戦い(1600)へと動く激動の時期であった。その時は宣教師間の反目の解消と豊臣秀吉後の布教体制の立て直しが、主要な課題であった。このときは1603年に離日している。
 ヴァリニアーノの貢献はザビエルの指針を具体的な方策として指示し、組織し、実行した点にあったと言えるだろう。
 
話し合ってみよう
 カブラルとヴァリニアーノの日本布教方策にはどのような違いがあるのかまとめ、その違いについて話し合ってみよう。

 

参考文献

塩野和夫「日本キリスト教史を読む」(新教出版社、1997年)

土井健司監修「1冊でわかるキリスト教史」(日本キリスト教団出版局、2018年)