のりさんのブログ

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狭い門から入れ

"狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。
いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。"
マタイの福音書 7章13~14節

 

人間は神のみことばを軽んじ、神のようになろうとして罪を犯しました。そして、祝福の関係が壊れて、人間は苦しんで食を得る世界に置かれることになりました。その神と人の間には燃える剣とケルビムが置かれて人間が勝手に出入りすることのないようにされました。

 

御国の門に立つケルビムを無視して神には近づけないのです。

 

しかし、神は人に祝福への道を備えました。それは、へりくだって罪を認め、神が用意されたキリストを信じ受け入れることでした。それは、キリストを神の子羊として、自分の罪の代わりに殺されたことを信じて感謝して受け入れることです。それは、キリストとともに私自身も十字架につけられ罪とともに滅ぼされたことを意味しています。そして、その死からキリストとともによみがえることをも受け入れるのです。

 

洗礼はその救いのプロセスを表すしるしです。

 

ただし、そのことを信じる者は僅かであると主イエスは言われます。それは、人は自分に有利になるように、門を広げようとするからです。神は愛なので誰でも救いますと、美辞麗句を並べて神を崇めているように思わせて、みことばを曲げても、その門を広げて、そこにケルビムと炎の剣があることを無視させようとするのです。

 

しかし、そのケルビムと炎の剣を通ることができるのは、自分の罪を認め、悔い改めてキリストとともに死ぬことです。自分の悲惨さに気づかされ、だからこそ、そこにある神の救いの御手にすがるのです。

 

そのことなしに救いはありません。しかし、その狭き門を通ることで救われると言うのですから、命の門を通るために、あらためて主の前にへりくだり、身を低くして、狭き門をくぐろうではありませんか。