のりさんのブログ

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森永太一郎

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 皆さんは「森永太一郎」という人を御存じでしょうか。現在では、お菓子や乳製品の大手ブランドとなっている森永製菓、森永乳業の創業者です。また先般、銃撃事件で亡くなった安倍晋三元首相の奥さん昭恵さんは、森永太一郎の外戚にあたるそうです。
 
 森永太一郎は、慶応6年(1865)に肥前の国、現在の佐賀県にあった陶磁器を扱う商人の家で生まれました。6歳で父を亡くし、母親が再婚し母とも離別します。そして親戚の家を転々としながら育ち、12歳から父親と同じ陶器商人として修行を始め、23歳の時にアメリカへ渡りました。そこで苦労しながらお菓子やパン製造のスキルを身につけます。


 そのアメリカで、生まれて初めてキャンディを口にした太一郎は、その瞬間に菓子職人になろうと決心したそうです。そして、どうしても日本の子どもたちに食べさせたいと、アメリカで日本人であることで差別を受けながら、10年以上も辛く厳しい修行を重ねました。しかし、そのような中で教会へ通うようになります。そしてイエス様を信じてメソジストの日本人教会で洗礼を受けます。彼に洗礼を授けたのは、札幌農学校の学生だった内村鑑三新渡戸稲造に洗礼を授けたハリスでした。
 
 1899年(明治32)に帰国した太一郎は、東京で小さな菓子工場を始めます。そして、ガラス張りの箱型の荷車を特注して、屋根には漆塗りの板に金色の文字でこう書きました。


「キリスト・イエス 罪人を救わんがために世に給えり」という第一テモテのみことばと「義は国を高くし、罪は民を辱かしむ」という箴言14章34節のみことばです。


 彼は熱心なクリスチャンになっていたのです。だから、明治維新後もなかなか消えないキリスト教へのバッシングにも堪えて、伝道しながら、マシュマロやチョコレート、キャラメルなどのオリジナル菓子を生産し、車に積んで東京の街を売り歩きました。その後も、「耶蘇の菓子屋」と揶揄されつつ次々にヒット商品を生み出して、彼の商売は祝福され発展していきます。彼のうちにかたちづくられたキリストが仕事にも反映して、品質本位で誠実に徹した彼の経済理念と使命感に繋がったのです。
 
 まさに彼の生き様に御霊の実がかたちづくられて行きました。栄光から栄光へと主と同じ誠実さ、神への献身へと押し出して、祝福されていったのです。

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 ところが、やがて彼は、仕事がうまく行き、有名にもなり、お金持ちになっていったときに、信仰から離れてしまいます。太一郎が後にこう言っています。
「私はその時、名利の奴隷となり、金銭や物質偶像崇拝者となって…百万長者を夢見て野心満々たる際は、神に感謝の念も皆無となった」


 そのときから30年も教会に行くことをやめてしまい、事業の成功も、自分の労苦や能力の賜物だと思い上がってしまっていたのです。
 
 しかし、そのような慢心していた矢先に20歳のときから連れ添った妻を失います。そして再婚しますがまた死に別れてしまいます。その言い知れぬ喪失感の中で彼は、ようやく、目が覚めます。その喪失感の中で、これまで自分がどれほど神のみ旨を痛めてきたかを知らされ、深く悔い改めの祈りに導かれるのです。

 

 事業が伸びたのも神から受けた特別な恵みだったのに、思い上がっていた自分の愚かさに気付いたのです。まさに、彼に住んでおられた聖霊が彼に罪を気づかせ、悔い改めに導いたのでした。
 
 涙ながらに太一郎は神に祈りました。すると心の奥から「主よ、みもとに近づかん。のぼる道は十字架に…」という讃美歌がわき溢れてきて、涙にむせび祈る中で、そこに神の声を聞いたと言います。「われに帰れ」と。


 しかし、それは、実は長い間ずっと彼の心に響いていた言葉であったということです。御霊が、ずっと太一郎がキリストのかたちに近づくように、神の子どもとして回復するように語っておられたのでした。
 
 そして、さらに心の中に声が響いたそうです。
「行け。迷える多くの者に証しせよ。われ汝を助けん」
それはまさに、助け主の声ではないでしょうか。
 
 太一郎は晩年、「ただ主にのみ忠実なるしもべとなって、神のご恩を証しする」ために、迷える世界から神に呼び戻されたと、証ししています。
 

 そのときから、十数万戸ある全国の取引先や販売店、その従業員たちやあらゆる人々にキリストの福音を伝えるため、国内外を巡ったと言います。

 

 そうです。そこから、あらためて創業当時の聖書のことばとエンゼルマークをシンボルとして掲げた原点に帰って、あらためて神の栄光のために生き、そして、天に凱旋して行ったのです。