のりさんのブログ

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ピアソン宣教師

1.生涯
ジョージ・ペック・ピアソン(George. Peck.
Pierson)は 1861(文久元)年、アメリカのニュージャージー州エリザベス市に、牧師の子として生まれた。1888(明治 21)年に宣教師として来日し、東京の明治学院で教えた後、千葉の中学校を経て、1894 年(明治 27)年、北海道に渡り、函館・室蘭・小樽・札幌で伝道した。小樽に住んだとき、聖公会の女性宣教師のアイダ・ゲップと東京で結婚し、その後は特に小樽と札 幌で女子教育に貢献し、札幌農学校の学生にも教えたこともある。1901(明治 34)年、旭川に移り、山口庄之助・坂本直寛らと共に、帯広・釧路・名寄・美 深・遠軽・北光社等を回って伝道活動を行った。1903(明治 36)年には旭川聖 書館を建てるとともに、廃娼運動にも奔走した。1914(大正 3)年に野付牛(現 北見市)に移り、約 15 年間滞在して伝道の足跡を残している1。 1928(昭和 3)年、約 40 年の在日伝道を終えて帰国し、夫人は 1937(昭和 12) 年に 74 歳で、ピアソンは 1939(昭和 14)年に 78 歳で天に召された。

 

2.活動・教え・貢献
①故郷エリザベスの精神風土
ピアソンが生まれたのは、南北戦争が勃発した年であった。幼少年時代 から青年期にかけて、彼を養い培った家庭はもとより、アメリカのピューリ タン精神、エリザベス長老教会の改革派的信仰と伝統、知的水準の高さと豊 かな徳性を校風とするピングリー中学校の教育2、そしてプリンストン大学の 学問、アメリカ独立戦争時代に演じたエリザベスの歴史的貢献、更にニュー ヨークに接するこの町の国際性と世界性がピアソンの信仰と人格を形成して いったと言うことができる。
②日本最古の聖書との出会い~日本へ
ピアソン少年が影響を受けたのは中学校だけではなかった。日本への宣教 師として志す決意に影響を与えたのは、一冊の日本語聖書との出会いがあっ たと言うことができる。その聖書は、日本最古の聖書「約翰福音書」3である。 1 ピアソン夫妻の住んでいた住居は、その後さまざまな経過を辿り、北見市の指定文化財となり、ピアソ ン記念館として保存されてきた。
2 ピングリー中学校の教育:校長のピングリーは牧師のかたわら、すでにいくつかの男子中学で教鞭 をとっていた。この校長の信仰・人格・見識がピングリー中学校の基本的性格を形成し、重厚な校風とな り、彼の名声と影響は東部諸州に及んだ。この学校の目標は「主を恐れることは、知恵の初めなり」(箴言 1 章 7 節)だけであった。彼の生徒に対する同情と親身に溢れ公平で自制を失わない扱いと深い信仰的感 情、聖書に対する尊敬と神への畏敬の念が、ピアソン少年にも多大な影響を与えた。 3 この聖書は、ドイツ人宣教師ギュツラフが中国のマカオで漂流中救助された日本人の三人の船乗りから 教えられた、まことに奇妙な日本語によって翻訳された。今日知られている限り世界中でたった 16 冊現存 すると言われる極めて貴重な聖書である。ところが、ピアソンはこのうちの 1 冊を父より貰い受け、生涯 大切に保管し、現在それは明治学院大学図書館に秘蔵されている。

 

ピアソンの 40 年間の日本における伝道で、最も充実した意義ある業績の一つ は、一般に言われる「ピアソン聖書」、すなわち「略註旧新約聖書」等の編纂 事業である。若き日の日本最古の聖書との出会いは、いよいよ日本への好奇
心とロマンを無限に広げ、日本宣教の志しを一層深めた。
ピアソンはプリンストン大学4卒業後は、郷里で学校の教師を務めるが、そ
の後プリンストン神学校に入学し伝道者として歩みだし、1888(明治 21)年
卒業し、父親が牧会するエリザベスのウェストミンスター長老教会で按手礼
を受け、その夏アメリカを出帆して日本に向った5。
明治学院~千葉で田舎伝道~北に向う~アイダとの結婚
明治学院では英語と新約聖書はもとより、普通学部でギリシャ語と教育学
を教授することになっていた6。神学部の学生、和泉彌六を教師として日本語
の習得訓練に励み、後には皇室の通訳に招聘されるほど上達したが、固 辞し
たと言われる7。
しかし、当時、日本の政治状況はすでに明治絶対主義体制をほぼ完了し、 天皇制の確立、明治欽定憲法の制定、教育勅語の発布等によって自由民権思
想、運動と連動するキリスト教主義学校は国家体制と相容れない教育として
排撃され、弾圧をまぬがれなかった。ミッション・スクールであった明治学
院も規制を受け、生徒数は激減し、ピアソンもそれが理由で学校を退かざる
を得なかった。1890(明治 23)年、第一高等中学校(現東京大学教養学部)の 教師となった内村鑑三が、翌年 1 月 9 日同校の教育勅語奉戴式場で、明治天
皇の親署に敬礼を躊躇したとの理由で、官民の別なく世論から非難された、
いわゆる「内村鑑三不敬事件」が起こった春、ピアソンは明治学院をあとに
した8。
1890(明治 23)年 5 月、千葉県立中学校から月俸 60 円で招きを受け、英語 教師となり、そのかたわら千葉、佐倉の田舎伝道に尽くした9。千葉での 2 年
間の伝道活動の後、彼は更に北に向かい、岩手県の盛岡に移った。それは、
数年前よりそこで伝道していた三浦徹牧師に協力するためであった。そして
同時にピアソンはそこから北海道に足を伸ばし調査した結果、北海道こそ自
分の全生涯を捧げるに値する伝道地と考え、決意したらしい。初めは室蘭や
函館にごくわずかの期間滞在し、やがて小樽、札幌に居を構えるようになり、 そこを拠点に全道をくまなく船や馬の背で、また徒歩で、クリスチャンがい

4 プリンストン大学ではアメリカ第 28 代大統領となったウィルソンと机を並べて学んだと言われる。
5 その船には、ピアソンがやがて北海道で協力することとなった坂本直寛に高知教会誕生の際、洗礼を授
けた宣教師である G.W.ノックス夫妻と子どもも同船していた。
6 青年ピアソンは、日本に到着するや否や、十日目に早くも腸チフスを患い、高熱のため生死の境を一ヶ
月近くもさまよう大病にかかり、九死に一生を得たが、この生死をめぐる体験こそピアソンに日本宣教を
真剣に考えさせる一大機縁となった。
7 当時、明治学院には島崎藤村が在学中であった。
8 彼は晩年の回想で「1888 年、日本の国家主義者が台頭し、私はもう明治学院ではお払い箱となった」と
語っている。
9 ピアソンは若かりし頃の千葉伝道をかえりみて、千葉教会への手紙の中で「私は初めて千葉で田舎伝道
にかかって、その二年間の経験を忘れられない。その憶えは私の心の中の、何時までも残るべき宝物となっております。千葉は私の日本における神学校となり、故郷となっております。」と、千葉教会 50 周年(1925 年)を記念して野付牛から送っている。

1895(明治 28)年 6 月 12 日、東京において、米国聖公会婦人宣教師アイ ダ・ゲェップ(Ida Goepp)10と結婚した。
ピアソン夫妻はその後、小樽に住んで教会を助け、小樽最初の女学校、静 修女学校を援助し、全道のクリスチャン家庭を訪ね、「私に娘をあずけてく ださい」と言って学生募集に奔走した。創設者ロースの突然の死去のため短 期の女学校であったが優れた人材を生み出した。札幌に出てからは、形成途 上にある若い教会を助け、夫人はスミス女学校(現北星女子中、高校)で英 語と聖書を教えた。小樽で酒飲みの路上生活者を助けたり、豊平川沿いに点 在していたスラムの小屋が台風で倒壊し、背と鼻の高い天狗のような異人が 泥だらけになって、浮浪者と一緒に小屋を修理したことが町のうわさになっ たのも札幌在住のことである。また夫人は、札幌農学校の生徒にドイツ語を 教えたが、その中には有島武郎もいた。
旭川~廃娼運動・聖書事業・監獄伝道・アイヌ伝道
小樽、札幌で 7~8 年働いた彼らは、自分たちの伝道活動の領域を更に広 く遠く伸ばすため、将来性のある旭川にその拠点を移すことにした。それは この地方の人々が、まだキリストの福音にほとんど耳を傾けたことがなかっ たからである。旭川でのピアソンの活動は町と教会を中心に、その周辺へと 広がる農村の開拓者へと及び、伝道のためには教派を超えて協力し、旭川キ リスト教連合会を組織した。最も注目すべきことは、旭川教会牧師坂本直寛 らと市内の諸教会と一致して、旭川中島遊郭撤去運動並びに廃娼運動を推進 したことである。その働きをおもにリードしたのはアイダ夫人であった。 ピアソンはそのほか、旭川中学で英語を教え、第七師団のクラブで説教を したり、夫人は将校にドイツ語を教えた。なかでも「略註旧新約聖書」の 編纂事業では膨大で長時間を要し、盛岡以来の先輩牧師三浦徹の助けを借り たとは言え、彼のような忍耐深い、愛に満ちた献身的な宣教師にして初めて できたことで、後にも先にもこの種の仕事は類例を見ない。難しい聖書に愛 する日本人が親しんでもらいたいとの祈りと情熱の結晶した仕事と言わね ばならない。この業績はやがて母校プリンストン大学から高い評価を受け、 神学博士の称号を授けられるに至った11。
また、旭川第七師団での将校と軍人伝道、および十勝監獄伝道は、坂本直 寛牧師の協力を得て活発に進められ、とりわけ十勝監獄伝道は全国的に有名
10 アイダは、フィラデルフィア出身のドイツ系アメリカ人でピアソンより一つ年下。7 歳にして母親を亡 くし、叔母のいるドイツのシュトゥットガルトで高校に入り、ニューヨークに戻りハンターカレッジ教員 養成学校を卒業するが、人生問題に煩悶した末、その疑問は海外宣教活動に向うことで氷解した。初めは アフリカに伝道するはずだったが米国聖公会伝道局は彼女を日本に派遣することとなり、最初の 5 年間、 立教女学院の前身東京セント・マーガレット女学校で、次いで番町女学校で教師として勤務した。その後、 福島で伝道した。伝統的に教育と伝道に熱心なモラヴィア教徒の家に生まれ、幼少女時代はニューヨーク の聖公会メソジスト教会の日曜学校で育ち、結婚後は夫と共に長老教会の中で働いた。この 4 つの教派 的要素が彼女の堅固な人格形成の基礎となった。彼女は、何事も徹底的に研究しなければ納得しない学者 的な側面と合わせて、鳥や花をこよなく愛し、教えることを喜び、献身的に日本人を愛して畏敬はされた が、当時の日本人からは、必ずしも好感は持たれなかったという。
11 しかし、ピアソンは博士と呼ばれるのを嫌って、教会の玄関で「ピアソン博士です」と紹介されること があれば、お客さんに草履を揃えながら「私は草履博士です」と言って笑わせたという。

 

になった12。 更に、貧しい人、差別され虐げられた人々の友となり、とりわけ近文の アイヌ部落で、アイヌ使徒と言われた英国人伝道者ジョン・バチェラー宣 教師と協力して教会を建て、アイヌを援助した。酋長の娘で夫に先立たれた アイヌの夫人をメイドとして引き取り、アイヌの孤児をわが子のごとく育て、 帰国するまで生活を共にし、教育もした。ピアソン夫妻のアイヌの関わりを 批判する人がいるが、真意を知らない誤解である。
⑤地の果て~野付牛(北見へ) 旭川での多事多難な 12 年の伝道活動が終わる頃、彼の伝道の幻は更に奥 地へと向った。アイヌ語で野の端、地の果ての意味を持つと言われる野付牛 に移住してきたのは 1914(大正 3)年である。ここには屯田兵や四国土佐の 開拓民が入植した北光社のキリスト教団体がおり、開拓入植後ピアソンはし ばしばここを訪問し開拓者たちを慰め励ましていた。彼がこの野付牛原野に 足を踏み入れた時は既に 52 歳、天命を知る初老に達していた。 ある初秋の夕暮れ、北見の高台に柏の大木、楡が大枝を張り広げ、桔梗、 刈萱、萩が咲き乱れ、狐や野うさぎの出没する小高い丘を散歩していると、 遠く広がる開拓地の向こうに連なる山並みは美しい夕焼けに燃えている。そ の中を飛んでゆく鳥の群れ。どこからともなく香ってくる薄荷の芳香。そこ で、ああこここそ自分たちの住むべき最後の根城であるというインスピレー ションを受けたと言う。ピアソンはその丘に素朴な、かつての生家もしくは 夫人好みの山小屋風の二階建て住宅を建てた13。 そのような野付牛(北見)での宣教でも、旭川と同様に遊郭設置反対運 動を指導し、設置運動を未然に阻止することに成功した14。ピアソン没後、 太平洋戦争を挟んで、29 年後、彼の故郷アメリカのニュージャージー州エ リザベス市と北見市は、北見におけるピアソンの存在と働きを記念して 1969 (昭和 44)年、姉妹都市の縁組を結び今日に至っている。
12 十勝監獄リバイバルについて語った坂本直寛牧師の言葉がある。「日曜日、私は監獄の塀の中にある大き な白い建物の集会所に集まった 700 人を超える受刑者たちに説教しました。非常に多くの囚人たちがみこ とばに触れ、罪の意識に苦しんでいました。・・・集会は、臼井氏の祈りによって始まり、すべての参会者は その祈りに圧倒され、深い感銘を受けました。そこにいた者は全員聖霊に動かされ・・・恵みに対する祈りの 大声があがり、悔い改めの泣き声と・・・(私が)説教をするために講壇に立ったとき、再び聖霊に満たされ、 話している間激しい落涙のため語ることができず・・・この集会の結果、420 人の囚人が悔い改め、神の恵み を受けてクリスチャンになる決心をしたのです。」 13 当時の開拓民は御殿のようだとして西洋館と呼んだ。彼はこの丘をこよなく愛し、三柏の森と名づけ、 夏は小鳥がよく飛来し囀り、きれいな芝生に花壇が映え道行く人の目を休ませた。この宣教師宅に沿って 一筋の小さなポプラ並木があり、北見の人たちは古くからピアソン通りと呼び鳴らし、戦時下、英語を敵 性語として排斥した時もピアソン通りの呼び名は変わらなかった。 14 その成功の裏には、ピアソン夫妻の大きな犠牲があったことを知らなければならない。何十人もの農家 の若い娘たちが売られて、いかがわしい商売を強いられていることを聞くと、その娘たちを買い取って親 元に帰す。すると親と業者がグルになって娘をまた売買してピアソンから金を巻き上げるという悪質な被 害にあったり、自宅に娘たちをかくまって、仕事を教え、結婚の世話までしたり、ときにはそのような慈 善活動に不服な郎党から殴打されたり、アイダ夫人も打たれて、その痛みは後々まで残っていたほどであ ったという。

 

3.今日の教会が学ぶべきこと 以上、ピアソンの歩みを見てきたが、アメリカ人宣教師としては珍しいと言 って良いほど地味で控えめな性格の持ち主であったと思う。アイダ夫人との夫 婦喧嘩においても見事に家から出て行く側になっている15。しかし、彼の日本に おける、特に北海道における宣教の働きは実にアグレッシブであり、最終的に 地の果て(野付牛)までやって来た。 外国人宣教師を嫌悪していた内村鑑三は、友人である田村直臣16に「田村君、 宣教師でもあんな宣教師がいるよ」と言って自分に親切にしてくれた野付牛の ピアソン夫妻に感服していたという。その評価は決してお世辞ではなく、ピア ソンのキリスト者としての生き方から溢れてくる証しである。 その歩みから今日の私たちが学ぶべきことを大きく三つ挙げたい。 ①ぶれない献身
ピアソンの生まれ育った土壌や教育環境、家庭環境が大きく影響していた のか、また 1 冊の日本語聖書が影響を与えたのか、それとも全ての事柄がピ アソンを日本の宣教へと押し出したのか。明治学院での働きから徐々に田舎 へ。徐々に北へ宣教地を移していった。その中で、ピアソンとは間逆な性格 のアイダと出会い結婚。そこから彼の宣教のスピードも強さも高まったよう に思える。特に、みことばによる福音宣教だけでなく、廃娼運動などの社会 運にも尽力したことは、語るだけでなく行いにおいても福音に生きたと言え る。行動が伴う敬虔な一貫した信仰の姿勢は、今の私たちにとっても大切な 生き方である。
②社会運動への取り組み
前述したように遊郭廃止運動や廃娼運動に尽力し、社会における悪に対して からだを張って反対し、少女たちを救ったことは、現代における福音主義教 会にとっても大きなチャレンジを受ける姿勢である。現在、震災支援等を通 して取り組んでいるところではあるが、キリスト者として、またキリスト教 会として、主から知恵を与えられつつ更に継続した福音的な社会活動への参 加が求められていると思われる。 ③教派を超えた宣教協力
当時は公会主義もあり、教派に捉われない宣教が大きく用いられたと言え る。特に十勝における監獄伝道では、十勝監獄の大典獄だった黒木鯤太郎自 身はピアソンや坂本直寛と同じ日本基督教会(長老派)だったが日本聖公会 とも繋がりがあった。十勝自体が聖公会の宣教が最初であった。更に、旭川
15 ピアソン夫妻の夫婦喧嘩:伝道のため、また人を助け愛することなら絶えず一致協力する夫妻も、時に 衝突することも夫婦喧嘩に及ぶこともあった。ある夜、アイダ夫人のヒステリックな怒声のためピアソン は家出を覚悟し、当てもなく歩いていると橋の上にいることに気づき、ふと、らんかんの下を見れば、月 に照らされている自分の影があまりにも黒く鮮やかに水面に映っている。「ああ、これは私の心が暗いから だ」と言って再び家に戻り、仲直りしたという。この夫妻もまた一人ではなく、二人で共に立つ神の使者 であった。「天才は一人で立ち、使徒は二人で立つ」と言われるように。 16 当時のキリスト教界においてその特異な存在のゆえに、むしろ異端者と思われていたキリスト教界「三 村」の一人。

 

では坂本直寛と組合派の六条教会とも交流があり、その背景の中、監獄伝道
が行われた。そして、受刑者だけではなく刑務官の中にも回心者が起こされ、 大リバイバルとなった。今日の北海道宣教においても、教派を超えた宣教協
力は地方宣教の要となっている。
今後も私たちは、以上のような歴史的事実を踏まえつつ、同じ神を信じ福
音を宣べ伝えるキリストの群れとして、既に来、いまだ途上にあり、やがて
来るべき神の国の建設のために協力し、取り組むべき意義があると言えるの
ではないだろうか。
【参考文献】
1.ピアソン会編集部「ピアソン夫妻をめぐる証言集 三柏のもり改訂版」ピアソン会, 2012 年
2.池田晶信「北海道開拓の宣教師ピアソン夫妻」ピアソン会, 2000 年
3.北原俊之訳「日本 北海道 明治四十一年」ピアソン会, 2009 年
4.中川了之, 吉田邦子訳「ピアソン夫妻書簡・レポート」ピアソン会, 2014 年
5.ピアソン, I, G「改訂版 六月の北見路」ピアソン会, 2002 年
6.ピアソン夫妻, 小池創造・小池榮訳「改訂版使徒はふたりで立つ」日本キリスト教会北見教会ピアソン文庫, 2011 年 7.田村直臣「我が見たる植村正久と内村鑑三」向山堂書房, 1932 年