のりさんのブログ

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民主主義を語る独裁のはじまり

 日本学術会議が推薦した学者のうち6名の方々を菅総理は任命しなかった。これまでの歴代の首相の中で、そのようなことはなかったという。あのタカ派と言われた故中曽根元首相だって、この任命は形式的なものであり、総理としての任命はするが、あくまで学術会議の独立性を脅かすものではないことを明言していた。

 なぜ菅総理は、このような強硬手段とも言うべき手法を取ったのか。それは、これまで安倍晋三の下で支える側であった菅さんとしては、自分の力を誇示したかったのではないかと思う。確かに、これまでの政府の提案に反対してきた6名ではあるが、あえてここで慣例を破るまでのことをしたのは、政府に反旗を翻す輩を追い払うというかたちを通して、内閣総理大臣菅義偉としての権威を見せつける意味があったのではないかと思う。

 この菅義偉にはカリスマ性がなく、印象としては弱腰に見える(私にはそう見える)だけに、安倍晋三以上にその権威を見せつけることに執着したのではないか。

 しかし、勘違いしてはならない。その権威とは何なのか。そもそも国民主権の我が国において、そこを履き違えると、それはもはや民主主義ではなくなるのだ。今、菅総理がしていることは、民主主義という名を隠れ蓑にした独裁である。

 独裁とは、民主主義の中にも生まれることを私たちは知っている。あのドイツのヒトラーだって、恐怖政治を行ったというよりも、まず民衆の心を鷲掴みにするところからはじまった。つまり、国民の支持を得て、そして、当時の法律に則って彼はドイツの総統になったのである。

 それは、独裁者であるヒトラーだけが悪いのではない。そのような人物を持ち上げて、自由にさせた国民も悪いのである。同じように、この独裁的手法で現在、その説明もなく過ぎようとしている中で、菅総理のその醜態を許している私たち国民も悪いのだ。

 だから、今、私たちは声をあげて否は否とはっきり言わなければならない。かつて治安維持法のもとに言論も表現も思想も制限され統制された、あの悪夢の時代に引き戻してはならない。今こそ、しっかりと地に足をつけて、独裁を止めなければならない。 

 このまま放置していると「日本学術会議」から「学術」を取ってしまい、「日本会議」となってしまう。

 

"そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。
それは、私たちがいつも敬虔で品位を保ち、平安で落ち着いた生活を送るためです。"
テモテへの手紙 第一 2章1~2節