のりさんのブログ

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憲法で定める自由

 最近、日本学術会議の任命について、任命権者である菅総理が国会で野党から叩かれている。任命権者だから、任命するのもしないのも自由だと言えば、そのとおりに聞こえるが、この問題はそういうことではない。

 そもそも日本学術会議という組織が置かれ、そのメンバーを形式上、つまり日本学術会議の指名に基づいて内閣総理大臣が任命する意味をきちんと整理しなければならない。ここに、現在の日本学術会議のあり方の是非という話を持ち込むのは、論点のすげ替えである。

 日本学術会議は行政の組織にありながら、行政が独断専行で独裁者とならないために、専門家から耳の痛い話を謙虚に聞き、国の舵取りに生かす機関である。

 だから行政の機関だから行政の長である内閣総理大臣に任命させるのであるが、それは先の戦争が行政の独断によって押し進められたという反省に立ちつつ、日本学術会議の独立性を内閣総理大臣が認め任ずるということを忘れてはならない。

 それは、内閣総理大臣を国会の指名に基づき天皇が任命するのと全く同じ理由である。天皇は戦前までは、大日本帝国の元首であり、帝国憲法では統治権統帥権を有する最高権力者であった。

 一応、帝国議会はあったが、国会よりも天皇が上だったのである。それにより、国民の声よりも天皇の判断が優先される。それを時の行政の長としての内閣が利用して戦争を始めることとなった。その構図は、源平合戦から変わっていない。天皇の権威によって自らの為すことを正当化してゴリ押ししたいのである。つまり勅令である。

 そういう悪習慣を断ち切るために、戦後、日本国憲法が制定され、その精神のもと天皇も行政も暴走することのない、国民が主役の新しい国家がスタートしたのである。

 だから、天皇が国会の指名に基づき内閣総理大臣を任命するところに、天皇の意思が入ってはならないし、日本学術会議から推薦されたメンバーの任命にも内閣総理大臣の意思が入ってはならないのである。

 それぞれに任命権者はそれぞれの権威に基づいて、国民主権を担保するのが、それぞれ任命権者の務めなのである。それは、憲法の精神が、それぞれの権威者がそれぞれの権威に胡座をかかさせない構図になっているからである。

 だから、その意味を弁えずに任命権者だから、任命を自由にできるというのは、憲法の置かれている意味、またその精神から生まれている日本学術会議の意味を理解してないか、履き違えている、または故意に無視しているのである。

 確かに内閣総理大臣は国会議員の中から選ばれるので、国民の代表という気持ちかも知れないが、その暴走を国民が制御する機能を無視するならば、それはファシズムである。そこのところを国会側にいる与党もきちんと立場を弁え、たとえ内閣総理大臣が自分の党の党首であろうとも、きとんとその独走を見張らなければ、国会が機能しなくなることを自覚すべきである。

 その国民主権、国民の自由を行政の暴走から守るために存在するはずの憲法憲法として尊ばない現政府のねじれが、極まって来ているため、今回の日本学術会議の任命にそれが現れたと考えられる。