目の前に欲しい物があると手当たり次第に手に入れたくなります。
でも、その全てを手に入れるためには、今握りしめている物を捨てるか、目の前の欲しい物を制限しなければなりません。
あれもこれも、全て簡単に持つことは難しいのです。家の大きさや、トランクの大きさや、物置の大きさなど、物理的に入れ物の容積には限界があるからです。
それは、私たちの心や頭の中も同様です。色々なことを同時にあれこれ考えることは精神的疲労を生み出し、ストレス物質を多く分泌することになるでしょう。または、脳内物質分泌のバランスを失い、心の病へと突入してしまうかも知れません。
神様は私たち人間を神様のかたち(像)として造ってくださったと聖書は言います。それは、神の全知全能性が私たちにも与えられているという意味でのかたち(像)ではありません。
ここで、その全てを語ることはできませんが、一つ、神のかたち(像)として言えることは、神が私たち人間を愛して、私たちにその全てを与えてくださったように、私たちには、私たちの隣人に対して、その全てを与えることができるということです。
それが神のかたち(像)の一つの面だと思います。ですから、あれもこれも欲しいとか、持っている物で満足しないで、もっと手に入れたいという思いというのは、神のかたちとは真逆にあると言えます。
聖書では、与えるのではなく、持っている以上に欲しがることを貪りと言います。それは、あのモーセの十戒の第10個めの戒めとして言われている、神様が嫌われる罪です。
その罪の性質は全ての人間にある、神のかたち(像)を歪めている原因です。神はそのような私たちを憐れんでくださり、愛しているからこそ、そのままにしないで、取り戻したいと思ってくださいました。
つまり、神は私のことを、そしてあなたのことを得たいと思われたのです。だから神は自らの全てを捨ててくださったのです。
それは、神でありながら神のままでいることができないとは考えないで、人間の姿でこの地上に来てくださり、私たちが受けるべき罪の刑罰を代わりに受けてくださったのです。
それは、私たちの罪の身代わりの姿であり、同時に得るためには捨てなければならないということを、身をもって示してくださったとも言えます。
今、あなたにとって欲しいものはなんでしょうか。それは、どんなものでしょうか。もし、私たちが神の声に聴き、罪を悔い改めて救い主イエス・キリストを信じるなら、くれろくれろの空しい人生ではなく、むしろ与える幸いに生きる者と変えられるのです。
受けるよりも与える人生。それは、まさにキリストが歩まれたように歩む、きよく美しい人生です。
ともに罪を悔い改め、キリストを信じて与える人生に踏み出して参りましょう。
"あなたがた自身が知っているとおり、私の両手は、自分の必要のためにも、ともにいる人たちのためにも働いてきました。
このように労苦して、弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」"
使徒の働き 20章34~35節